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So Long & Congratulation



久しぶりにレコーディングをやってみた。
この唄は1998年、職場を離れる恩人のために贈ったもので、当時の僕の部屋でギター1本だけで本人に唄ったことがある。

前にこのブログの生涯の友で、「親友は学生時代にしか作れない」と言うような内容を書いたが、それはあくまでも社会に出てからの平時を想定している。
社会人になったなら闘う時は必ずある。
その時は私利私欲でなく価値観を同じくする人と共に行動することはあるものだ。
こういった時はかけがえのない友人が現れる時もある。

こう書くと一見簡単なように思われるかもしれないが、決してそんなことはない。
今、話題になっている待機児童の話をあげるまでもないが、仕事の大前提は家計を支えることである。
これなしに美意識だけで正論を共にする人があっても、それは子どもの戯言と言われても仕方がない。

人生の分岐点では「どこを妥協して、どこを譲れないか」を真正面から内省し、互いに話を詰めて、所属している集団の中で折り合いをつけていくわけで、
そこでは個人の価値観と社会的規範のすり合わせといった葛藤を抱えながら、もがき苦しみ、最後は自分で答えを出すしかないのである。
こんな状況の場合、大半が運命を共にする者同志は物理的な離別を覚悟の上、闘うわけで、決して誰かを陥れるために群れるのとはわけが違う。
それを乗り越えて初めて信頼感の共有を確信できるようになり、時空にとらわれない縁ができるのである。

ここまで書いたのはあくまでも僕の経験からくる人生哲学である。
よって誰にでも当てはまるなんて思っている訳ではない。
以前、大学生から「ストレートマスターで臨床心理士になるより、一度社会経験してからの方が説得力があるのではないか」というような質問をされたことがある。
その時の僕の答えの要約は「そう思う人はそうしたらいいし、そう思わない人はストレートマスターでいいんじゃない」だった。
ここで敢えて付け足せば、大学院生ともなれば社会人扱いとなるし、臨床心理士指定大学院ならばシラバスを見るまでもなく、実習は社会人としての訓練を含んでいるはずである。
また、民間であれ公務員であれ、社会人になっても「人としていかがなものかと思う人物」は何歳になってもいるし、それは教育界や医学界であっても同じだろう。

要するに、人格形成とは、どの道を行くにしても本人の心次第には違いない。
少なくとも僕が自分に問い続けている言葉を一つあげれば「救われたいのはどちらなのか」である。
これを見極めていない場合、長い目で見ると、押し付けの援助になってしまったり、仮説の立て方も間違ってしまうのではないかと思っている。

So Long & Congratulation

うまく言葉にできないけれど
ほんとによかったと思う
離れることは悔しいけれど
君らしい選択だから
一緒に戦いつづけたことは
今でも僕の誇りにしている
僕らはあの日々をわすれはできない
なれあう群れの中に埋もれずにいたこと
君の言葉が輝く場所へ
本当にSo Long & Congratulation
  
迎える朝は異なるけれど
同じ空の下で生きてる
傷つくことはあるとしても
なんとかなるさ僕らならば
本当はもう一度机を並べて
誰もが驚く仕事をしたいね
でもこんな時代に生まれたのだから
きっとそんな日が帰そうな気がするんだ
だから今は微笑みながら
本当にSo Long & Congratulation

一緒に戦いつづけたことは
今でも僕の誇りにしている
僕らはあの日々をわすれはできない
なれあう群れの中に埋もれずにいたこと
君の言葉が輝く場所へ
本当にSo Long & Congratulation
本当にSo Long & Congratulation

by jun_hara | 2016-03-28 02:00

Rのススメ

e0027033_16475913.jpg【Rってなんだろう?】

タイトルはテレビのバラエティ番組のようだが、この意味するところは「実際に統計をやってみよう」である。
Rと言うのは統計解析を行うためのオープンソースのスクリプト言語とその利用環境なのであるが、
この説明だと初学者には???だろう。
もっと簡単に書けば...
質問紙などで集めたデータの平均や相関など、ほとんど全ての統計計算とグラフ化を行ってくれる無料のソフトである。
平均や相関など基礎統計量ならEXCELでもできるので、どんな違いがあるのかと思われるだろう。
確かにそれは事実である。
それではRとEXCELではどう違うのだろうか。
また既に卒論などで統計解析をやった人にはSPSSSASなどを経験している人もいると思うが何が違うのだろうか。
操作的なことや技術要件などの詳細は割愛して書けば、Rだけが無料のソフトであるということだ。
※SAS University EditionやSPSSのアカデミックパッケージには賞味期限があります。
またRはWindows,Mac,LinuxのOSそれぞれに対応している。
それと、今やほぼ日本の心理学専攻での授業ではRが標準実習ツールとして用いられている。
しかし、とある情報では「授業ではRで教えているのに、EXCELやSPSSを使う学生が多い」と嘆く教授もいるとのこと。
さもありなん。
Windowsなんてない時代はSPSSしか選択肢がなかったのだから、Rを使い慣れていない場合、
EXCELやWindows版SPSSのほうが遙かに教えるのも憶えるのも楽だろう。

【Rを使ってみる】

そこで実際にRをダウンロードしてインストールし、使ってみる。

まずダウンロードとインストールは2つのものが必要となる。
一つ目はRそのものであり、もう一つはR Studioというツールである。
解りやすく書くと前者は車のエンジンにあたり、後者はハンドルや計器にあたると考えればいいだろう。
※前者だけを直接操作できないこともないのだが

Rのダウンロードとインストール

R Studioのダウンロードとインストール

とにかくこの二つを入れてしまえばすぐに使える。

まずR Studioを起動してプロンプトがあらわれたら
install.packages(("ggplot2"))
と入力しEnterを押す。
これはグラフを表示するためのパッケージをインストールする呪文だ。

次に「サイコロをランダムに100回振った平均を求めて、それをまた100000回繰り返した結果!」をやってみる。
※このサイコロの試行が正規分布の説明に出てくる中心極限定理の例と思って下さい。

この実行処理データをresと言う任意の名前の箱に保持してみるには
res <- replicate(100000,mean(sample(1:6,100,replace = TRUE)))
とプロンプトに入力しEnterを押す。
※sample関数自体がランダムに行う機能を持っています。
※「任意の名前の箱」は正式にはオブジェクトと言います。

次にプロンプトがあらわれたら
hist(res)
と入力しEnterを押す。
※これでちょっとしたヒストグラム(度数分布表)が表示される

次に、ちょっと凝った表示にするため
saikoro <- data.frame(サイコロ = res)
とプロンプトに入力しEnterを押す。

しばらくしてプロンプトがあらわれたら
library(ggplot2)
と入力しEnterを押す。
これはパッケージの中のggplot2というグラフ描画機能を使う呪文だ。

次にプロンプトがあらわれたら
ggplot(saikoro,aes(x=サイコロ))+geom_histogram(binwidth = .1,fill="steelblue",colour="black",alpha=0.5)+xlab("期待値")+ylab("回数")+ggtitle("サイコロの平均値の平均値")
と入力する。
そうすると今回の画像のグラフである「サイコロの平均値の平均値」のヒストグラムがあらわれる。

【Rは使いやすい?】

と言うわけであるが、前述の教授の嘆きの原因はすぐにわかるだろう。
R Studioにはコマンドヒストリーやインテリセンスなどの入力補助機能はあるのでプログラミングを考えれば有り難いのだが、操作環境は日本語ではないし、あくまでもプロンプトに命令語をキー入力していくといったCUIなのである。
なのでMacやWidowsになれたユーザーにとっては「何を今更DOSでやるのか」という疑問を持っても不思議ではない。
※コマンドヒストリーとはDOSなどでおなじみの↑キーを押すと過去に入力したコマンドがあらわれる機能
※インテリセンスとはVisual Studioなどでおなじみの3文字くらい入力したら命令語の候補をリスト表示してくれる機能

しかしながら実際の修論や卒論で使う程度ならRを憶えておいた方がいいだろう。
なぜなら心理統計で実際に入力が必要となるのはプログラムを組むほどのものではないからだ。
まず、卒論や修論などの心理統計ならばどんな解析であれ必要な入力は、データ入力とほぼ限られた関数命令くらいだろう。
例えば、実際のデータ入力はEXCELで行い、CSVファイル形式で保存して読み込むことが一般的である。
後はt検定,F検定,相関,カイ二乗検定,重回帰分析,因子分析,ロジスティック回帰分析...などなど
解析方法に合わせた関数と引数が解ってしまえば、出力される内容の解釈が理解できればいい。

と、ここまで書いたら、いかにも簡単そうに見えるが、前述したように操作は英語版DOSのようなものなので、EXCELを使い慣れた者からすればGUIにしてもらいたいだろうし、エラーも日本語で出力してもらいたいはずである。
まあ、ここは無料なので「習うより慣れろ」としか書けないし、「これくらいで悲鳴をあげていたら応用行動分析の実験計画の理解のほうがもっと難しいのだから」としか説得しようがない。

兎に角、統計学は最初から用語の重々しさやΣ関数のオンパレード、それに日常で目にしないグラフが登場するので、どうしても第1印象からして腰が引けてしまうのであるが、心理統計レベルならば実際に簡単なt検定程度の操作をしてみたほうがいいように思う。
統計本で用語や計算式とにらめっこするのに疲れたら、見よう見まねでRの入門本を買って実際にやってみたほうが統計をイメージしやすいだろうから。

【Web調査の可能性】

とりあえずここまで読んで、「データ入力はEXCEL?」と疑問を持たれた方はかなりの情報処理通だろう。
※SE,プログラマーでこの疑問を持たないのはあり得ないという意味で。
つまり、データ入力をEXCELで手入力すること自体が原始的ではないかと言うことであるが...
それは正しい。
ところが日本の大学の心理統計では未だ質問紙調査がメインである。
Web調査は調査対象者の妥当性を補償する知識が必要となるし、タッチパネル入力のシステム構築を行うにしてもまだまだハードルが高い。
と言うのも、そもそも日本の心理学はその殆どが文学部や教育学部など文系の学科なので、Webシステムの構築をやろうとすると、それだけで2年間を消化してしまう。
しかし既にEclipseVisual Studioなどで簡単なWebシステムを作った経験があるのなら、それほど難しくないことは想像出来るだろう。
だいたいEXCELで入力するデータ程度なら、テーブルの正規化などのデータベース設計レベルを求められるわけではないのだから。
要するに基本的なASP.net(C#,Visual Basic)またはphpSQLが理解できればWeb調査も不可能ではない。
またCSVファイルの読み込みではなくても、MySQLなどの無料データベースを直接読み込む事も可能なので、手入力の手間と誤入力の回避、はたまた時間と場所を選ばない回答も可能となる。

RからDBに接続する方法(PostgreSQL, MySQL, SQLite)

※「私は質的研究しかしないから」と思われた方。
 今後は質的研究もRを使う可能性があります。
 例えば、Webサイトなどで評価コメントを参考にしてショッピングしたりすると思いますが、
 これらのテキスト情報を集めて客観的に解析するのも今後重要になってきます。
 要するに、Web上の意見を質的データとして収集し独立性の検定をしたり、因子分析で集約するとか。
 今後、心理学者たるもの数量化を避けては通れないのです。
※Webサイトなど文字情報をデータ収集及び解析する技術をテキストマイニングと言います。
 また「Web上の意見」とはいわゆるビッグデータのことで、直接データ入力しないデータを意味しています。
by jun_hara | 2016-03-26 07:57

心理臨床の基礎総括



2013年、東京のある有名私立大学の教授(臨床心理士かつ医学博士)が学部生の最初の臨床心理学講義で「臨床心理学は人生相談ではない」と述べられた。
この発言についての判断は保留する。
なぜならアメリカの臨床心理学の定義はそうであっても、日本独自の心理臨床という概念をもっては「個人の人生」なしに介入できないと思われるからである。
また、心理臨床という概念自体が臨床心理学と誤解される概念であるという批判もある。
これについても今後の研究課題となるだろう。
兎に角、臨床心理学の諸理論や概念は「どれだけの根拠をもって対人援助に役立つか」につきる。
河合隼雄は、「心理療法とは、悩みや問題の解決のために来談した人に対して、専門的に訓練を受けた者が、主として心理的な接近法によって、可能な限り来談者の全存在に対する配慮をもちつつ、来談者が人生の過程を発見的に歩むのを援助することである」と述べている。
また、倉光修は放送大学のスクールカウンセラーの授業最初に「知識は人を優しくする」と述べている。
一個人として科学的表現でない意見を書くと、これらの定義や見解を信じてきたからこそ、この歳にして臨床心理学の道に切り替えた。
もちろん、30年前の心理学と今のそれが同じではないことが、この1年間で一番痛感した事であり、諸理論に対する困惑にもなったのであるが、それらに対する確信をもった答えはこれからの課題として、この1年、大学院受験で学んだことを出来るだけ簡潔に解りやすく、かつ、誤解のないよう一気に書いてみる。
ただしあくまでも基礎なので、細部やその応用についてはこれから研究していく前提で記しておく。

心理療法は現在、300種類か400種類あると言われているが、その中でも3大理論というものがあり、日本の臨床心理士資格に問われる必須の知識となっている。
一つ目はオーストリアのジクムント・フロイトを祖とする精神分析学派であるが、フロイトは無意識の重要性を主張し治療関係において患者との中立性を強調した。
その後、アメリカでは「精神分析の無意識と言う概念自体が科学的に実証できないもの」であり、科学性を重視する立場から、全て観察可能な行動に着目し、人間の学習による変容を客観的データから明らかにしようとする行動主義があらわれた。
しかし人間の内的世界を行動のみに限定して解釈することから「心なき心理学」と批判されることになり新行動主義などの分派を生むことになる。
第2次世界大戦を挟んで、カール・ロジャースを祖とする人間性心理学という第3勢力があらわれる。これは「人間には本来、自己回復力があるもので、個人の理想自己と現実自己の不一致が悩みの原因であり、これらを一致しさえすれば自ずと自己回復する」といった立場であり、技法よりもカウンセラーの態度に重きを置く。

それぞれの学派はそのままの流れから批判を繰り返し、分派を生み、今に至っているが、現代の心理療法として効果がないことから、当初の主張を単純に間違った心理療法であると結論づけるのは、心理療法に対する正確な理解をしていないことになる。それぞれの学派が誕生した時代にはそれなりの背景があり、理論を組み立てた根拠には、セラピスト自身の人生が関わっている。例えば、フロイトの時代であるならば、それまでの神経症の治療として「子宮を切除する」と言った現代ではありえない方法が用いられていた。これは神経症(ヒステリー)の語源が子宮を意味していたからであるが、フロイトは「無意識に抑圧された記憶をセラピストに語る事」で治療できる方法として精神分析理論を組み立てた第1人者である。この原点なしにその後の心理療法は展開しなかったことになる。また、行動主義もその後、認知革命を経て認知科学と交わり、今では心理療法の主軸となっている認知行動療法(CBT)に至っている。人間性心理学は当初ロジャース自身が技法を軽視したが、その後修正が加えられ交流分析などに発展している。

どの理論や技法が効果的なのかについては、クライアントを取り巻く条件によって変わってくるが、どの心理療法であれ、クライアントとセラピストの「関係性」が一番重要な因子であることに変わりがないことは、すでにデータで示されている。
要するにロジャースが主張したカウンセラーの3つの態度である「自己一致」「共感的理解」「無条件の肯定的関心」を基礎として治療関係を構築し、クライアントの同意の下、あらゆる技法を駆使して介入にあたる姿勢は共通する。

現在では社会学的な観点をもって、家族療法やコミュニティ心理学など、それまでの個人を対象とした技法から、集団や環境を対象としたシステムズ・アプローチが登場している。しかし、基本はあくまでも人間個人の理解があってこそのものであり、個人の内界と、その外界といった複眼的な知見がなければ根本的な援助には至らないように思われる。

生物学的アプローチとしては脳科学研究や遺伝子科学研究のデータから薬学療法が発展しているが、根本的治療方法として用いられているわけではないことに留意すべきだろう。例えば、21世紀になって登場したSSRIが、うつ病に対して依存性の点では副作用のない画期的な治療薬として用いられているわけであるが、DSMでうつ病判断の指針はあるものの、その原因が特定されているわけではなく、あくまでも脳内神経伝達を補修する原理に止まった作用である。また、日本では医師によるCBTが保険適応内とされているが、CBT自体は効果研究を土台にしているものの、根本治療ではない。つまりCBTは持続原因に焦点を当てる技法であり、うつに至った根本原因に焦点を当てたものではない。

いずれにしても現在ではこれら「生物-心理-社会モデル」の観点から、対人援助の実践研究をすべきことは心理職の必須条件になっているが、それぞれの知識が専門的であることや、医療・福祉職や隣接科学の多様さを考慮すると、心理の専門性と他職種との連携こそが現場で通用する第1条件であると思われる。
by jun_hara | 2016-03-24 12:41

生涯の友

e0027033_8574379.jpg大学時代からの友から嬉しいお祝いが届いた。
実は僕が東京を離れて心理職を目指すことを話した時、唯一真正面から反対してくれた奴である。

僕の方向転換は、常識から考えれば、この歳でやることではないと思う。
当時僕は、別に技術職の仕事であぶれているのではなく、
むしろ、周りが生き残ることで精一杯なのに、案件は引く手あまただったし、
そのキャリアを全てゼロにするのは誰が考えてもおかしい。
いい大人だったらどんな理由があれ、バカなことをしていると思うのが一般的だろう。
しかしそんなことを、嫌われても本音で言い続ける奴なんて、家族でもなければ、ほぼない。

1年半前、僕が「心理職を目指す」と言った時、2時間以上かけて考え直すよう言ってくれたのも、
お互い学生時代からそうだったし、また、それぞれが転職などの移行期にある時は、話し合ってきた中でもあるからだ。

僕等の世代は卒業後にバブル崩壊を経験し、そうでなくとも、終身雇用にしがみつくままに生きてきた人以外は、
それぞれが自分の進路を決断しなければならない時期を経験している。
この時期を移行期と言い、正しい答えは何処にもない問いを繰り返し、次の道へと進んできた。
勿論、結論を出すのは自分自身なのであるが、その過程で本質を語れる人ほど大切なものはない。

しかしそんな友人を作るれる機会は、利害関係がなく守るべき生活世界が固定されていない時以外は皆無に近い。
それが学生時代なのであるが、今では物質的に豊かになり過ぎたのか、それさえも難しいみたいだ。
誰もが「解離的な現実」を疑いもなく受け入れて、器用かつ当たり障りのない距離感の対人関係を良しとしている。
また、KYなどの偏った価値観が横行している中、そうせざるを得ないのだろう。
それが一番の孤独に繋がる根源とも気づかないまま。

僕等自身も学生時代はこんなに長い付き合いになるとは思いもしなかった。
また、卒業してからも頻繁に会っているわけではない。
お互いそれぞれの世界で忙しくしているし生活がある。
それでも何かあったら、しばらく会わずとも、また会えば、元のままで話せるのは、
学生時代に何度もぶつかり合った数と比例していると思う。
要するに、僕らは、その場しのぎで仲良くするといった器用なことができなかったのだが、
だからこそ腹を割って話せる関係に成熟したのだと思う。

総じて、社会に出てからは利害関係なしの深い絆を作ることが難しい。
必ず敵は現れるし、裏で人間性を疑うような理不尽な態度をする存在も珍しくない。
僕も時に他者にとってはそうであるだろう。
正論だけで結論を出したり、八方美人が通用するほど、人生は気楽なものではないのだ。
だからこそ、非線形な判断を迫られる時、本音で語り合える存在は、この上なく大切すべきものだと思う。
by jun_hara | 2016-03-12 10:03

知能のパラドックス

e0027033_17543571.jpg知能のパラドックス 単行本 – 2015/7/24 を読み終えた。

おおよその内容は進化心理学の視点から「知能」の正体を解き明かすとしている。そして「知能」は人間の進化の過程では新しい概念であり、本来人間に備わっていた「本性」としての要素ではないとする。また、「知能」=「人間の究極の価値」では決してなく、身長や体重のようなひとつの特徴に過ぎないことを前提に話を進めていく。
確かに「オカマの人って、なんとなく頭の回転がはやくない?」「できるビジネスマンって、どうしてジムに通うの?」「一流の人って、なぜかみんなクラシック音楽が好きだよね」「マスコミって、どうして保守政権を目の敵にするの?」など、興味深いテーマで展開される話なのだが、正直、統計的検定を鵜呑みにできないところや、考察に論理の飛躍がある点は否めない。

それでも正しいかは別にして面白い箇所を引用してみると

「保守主義者より自由主義者のほうが知能が高いのはなぜか?」より
チャールトンの説によれば、一般知能を除く、進化により形成された心理メカニズム(つまり人間の本性)の総体が、いわゆる「常識」というものの正体だ。常識は誰にでも備わっている。しかし知能の高い人は、その知能の高さからくる分析的・論理的思考力を、間違ってはたらかせ、進化の観点から見てごく当たり前の問題でも、分析的・論理的に考えてしまう傾向があり、その結果、失敗をやらかす。
要するに、リベラル派をはじめとする知能の高い人には、常識が欠けている。常識にしたがおうとしても高い知能がじゃまをするのだ。彼らは「感じれば」よい場面でも「考えて」しまう。対人関係のような日常の場面ではたいてい、考えるよりも感じることのほうが大切だ。

とか
よく指摘されるように、学問の世界ではすでにこういう状況が起きている。たとえば、文芸評論のように、ある見解が正しいかどうかに関して外部の客観的な評価基準がない分野(どんな理論も事実で検証しなければならない自然科学とは大違いだ)や、社会学のような非科学的な分野(何が真実かをめぐって一向に意見がまとまらず、実証的なデータより政治思想のほうが優先される)。そうした世界では、「読者反応論」や「社会構築主義」のような複雑怪奇な理論を唱える学者がたたえられる風潮がある。

だろうか。

個人的には「音楽の起源は歌。楽器で演奏する音楽は新しい」より
私の感覚で言うと、西洋のクラシック音楽は世界中の他の伝統音楽と同様、「進化の歴史における音楽的表現とは」性質が違うようだ。そもそもクラシックをやるには、普通の人にはマスターできない、つらい修行を積まなければならない。バッハやシェーンベルクの作品に見られるようなメロディーやハーモニー、リズムが自然に理解できるようになるわけではない(自分で創作するのはもっと難しい)。この種の音楽は母語の習得とはまったく違うのだ。

はある程度納得がいく。

とりあえず、学術書としてではなく興味本位で読む分には面白いのかもしれない。
by jun_hara | 2016-02-29 18:11

あれから21年


1995年1月17日の阪神淡路大震災から21年が経つ。
僕は当時、東京の文京区に住んでいて、テレビからの情報しか知ることが出来ず、生の被災地を視たのはそれから3か月後だった。
テレビでは相変わらず、阪神高速が倒壊した映像ばかりが流れて、その後の阪神地区の復興ぶりばかり取り上げられ、東日本大震災と比べても、その後の対応の良さばかりが語られているような気がする。
確かに被害が酷かった中央区、灘区、東灘区、芦屋市、西宮市などの復興においては、高層マンションが林立し、まるで被害がなかったかのようである。
しかし、これが一番被害の酷かった長田区においては話が違う。
箱物の対応はしたものの、人口流出が止まらず、追い打ちをかけるかのように、中心産業であった靴製造が海外流出し、それと連動して、伝統のある商店街もシャッター通りに瀕している。
兵庫県や神戸市は対策として、中央区に集中している行政機関を長田区へ移転する計画をしているらしいが、中心産業と商業施設の連動までは具体的な政策を詰められていないようだ。
学生時代、賑わっていた靴工場や商店街でアルバイトをやった記憶は鮮明に残っているが、それを思い出させてくれる懐かしい風景はもうない。

阪神大震災を語る時、神戸と淡路ばかりが話に挙げられるが、実は明石市の東部でもかなりの被害が出た。
僕が小学3年まで住んでいた大蔵本町は東経135度にある天文科学館から海を臨んだ東に位置する。
勿論、被災地の真っただ中だったので、住んでいる頃に地震が発生していたなら、確実に死んでいたことは確かだった。
今では、明石海峡大橋を一望できる海岸沿いが大蔵海岸公園として生まれかわり、ショッピングモールなどもできて人口もV字回復を遂げているらしい。
ところが先日1月12日に大蔵本町を訪れたら、復興計画から取り残された路地裏の風景がまるで子供の頃の建物をそのままにゴーストタウン化している。
また、ショッピングモールができたこともあって、子供の頃、一番賑わっていた大蔵市場はまるで遺跡状態になっているし、その周辺では買い手のつかないさら地も点在する。
あの懐かしい人達はどこへ行ってしまったのだろう。
せめて大切な思い出として、自分の記憶の中からだけはこぼれないようにしたい一日だ。
by jun_hara | 2016-01-17 00:13

アクセプタンス&コミットメント・セラピー(ACT)

e0027033_2250161.jpg認知行動療法(Cognitive behavioral therapy、以下CBT)の第3勢力として行動療法的認知行動療法であるACTが注目されている。
基本的にCBTが伝統的な心理療法と違うのは、不適応などを発症させている初期原因に遡るのではなく、不適応を持続させている原因(持続原因)に焦点をあてている事が最大の違いである。
これは不適応な認知や行動についてその原因を「分離-個体化の乳幼児期」、「エディプス期」などの発達論的な観点から探ることよりも、どうすればその不適応という現象が消去でき、適応的な認知や行動を学習できるかに集中することを意味する。
要するに「初期条件(または原因)がわかれば治療できるのではなく、持続条件(または原因)がわかれば治療できる」とする所以である。

CBTは一つの治療法ではなく、起源が異なる暴露法などの行動療法(第1勢力)と認知再構成法に代表される認知療法(第2勢力)の統合的療法の総称であり、一般的にCBTと言う場合、認知療法を指していることが多い。
ただ現場においては、こういった厳密な区分を設けず、ランダム化比較試験などの効果研究に基づき、仮説検証型のケース・フォーミュレーションを行い、「あるものは何でも使う」といった態度もCBT的であると言える。

CBTの名のもと、さまざまな新しい臨床技法が登場してきたが、ここにきて一番注目されているのがACTである。
第3勢力として押さえておくべき概念が「アクセプタンス」、「コミットメント」、「マインドフルネス」である。

「アクセプタンス」とは、与えられているもの(感情、思考、症状、身体感覚など)、「今、ここ」で経験しているものを、判断を介さず受け取ること。
「コミットメント」とは、具体的なホームワークや行動的エクササイズを使って、「価値」に沿った(障害からの回復に)効果のある行動をすること。
「マインドフルネス」の状態とは、ある特定の仕方で注意を払うこと、つまり、目的にそって、当該時点において、無評価的に注意を払うこと。

アクセプタンスを行うためには、当然、注意を向け続けること、判断を避ける(あるいは素早くそれを解き放つ)こと、さらに覚醒の程度に気を配ることなどに対して、マインドフルネスに関わる必要がある。
これらは非常に東洋的な概念であるが、それ故日本人に馴染みやすいものだと思う。

ここで重要なのは、マインドフルネスが中心概念になっているが、この前に必ずアクセプタンスが裏打ちされていなければならないことである。
アクセプタンスを忘れて、マインドフルネスはない。日本の精神、文化、芸術には、アクセプタンスが流れている。大きなものの愛情、慈悲に包まれている=受容されている、根底に包むものがある、これが日本人の精神の根底にある。受容されないと、落ち着いて、マインドフルネスできない。これからは、マインドフルネス心理療法、マインドフルネス心理学ではなく、アクセプタンス心理療法、アクプタンス心理学を強調していくことが大切であるように思う。
日本では、特にそうである。
こどもがクラスメートをいじめるのは、ささいな不愉快さを受容できず、存在全体を受容しないのである。この同じような状況が虐待、暴力と見捨てられ不安、社会におけるぎすぎすした人間関係、うつ病に追い込まれる働く人、高齢者への虐待、・・・。国と国の争いも。アクセプタンスがないのである。親が子を受容しない、子が親を受容しない、夫婦が互いを受容しない、職場で同僚、部下を受容しない、非正規社員を受容しない、医療・福祉の現場で相手を受容しない。アクセプタンスの底の底も、西洋と日本とでは違うようである。
日本人は、どんなに悪い自分でも見捨てられない、無条件で、絶対的に受容されているという安心を求めてきた人種のようである。東洋のうちでも条件つきの受容があって、日本は特に無条件の受容心を発見したのである。人が生きていくうえで、自分がアクセプタンスされていてこそ、相手にやさしくなれるのである。相手の不十分なことを受容して、対決しない行動を求めていけるのである。
相手の底にも人格を見るからだ。
ささいなことで怒り、比べようもないほどの命をうばうこと、自殺に追い込むことをしない。
アクセプタンスがないマインドフルネスは破綻すると思われる。

ことほど左様に、日本人特有の魂のようなものがあるとするならば、こういった価値観と歴史が根底にあると思われるのだが、これはあくまでも論理的仮説にすぎず、初期条件(または原因)を求めないCBT的思考法からすれば不要かも知れない。
by jun_hara | 2015-07-21 22:28

「『心理臨床』という専門性の共有を考える」より

日本の臨床心理(もしくは心理臨床)をとりまく環境はドラスティックに変貌をし続けている。
元々、心理学(学術的心理学)も臨床心理学も西欧からの輸入学問を発祥としているため、文化差を念頭に置いた人間観を一義的に変換できないといったジレンマが存在するが、それでも社会的病理であれ、個人の社会不適応への介入であれ、臨床の必要性だけは増加する一方であることには誰もが異論なきことだと思われる。
その中心的役割を果たしてきた日本の臨床心理士資格について、この数年で大きな転換点に立っている。
1995年の阪神大震災と2011年の東日本大震災を持って、臨床心理士の社会的存在理由は周知されたかのようであるが、この資格が国家資格ではないことを知っている人は少ないのではないだろうか。
裏を返せば、心理療法は社会保険料適用外であり、臨床心理士にはその報酬や保証も存在しない資格なのである。
一方、あらゆる領域(教育、医療、産業、司法、福祉)において必要不可欠でありながら、その活動範囲が広くて深くなりすぎている問題から、専門性と総合性のバランスにおいてアイデンティティが確固たるものでないことも内在している資格であり、この資格で食べていくには、あまりにも経済的基盤が不確かな職種にしか開かれていない現実がある。
これを裏付ける事も含め、以下の文面を引用する。

心理療法の現在に関する検証一臨床と研究の即応的関係の構築一

大山氏は、近年の心理士を取り巻く状況は、個々の心理土に心理臨床のコアが問われる状況にあると言います。心理土の若年層が増えている現況は、心理士の専門性の継承を難しくしています。また、複数の領域にまたがって勤務する心理土の増加や、領域の細分化によって求められる専門性も細分化されることで、心理土としてのアイデンティティが揺らぎやすい状況もあります。大山氏は、このような背景が心理土間で心理臨床のコアを共有しにくい状況をもたらしていると指摘します。また、大山氏はご自身のドイツでの経験から、言葉や国を超えた普遍的な心理臨床のコア成るものが存在する可能性や、その一方で日本の心理臨床の考え方に精神分析的なアプローチと森田療法的なアプローチの両方が存在する特殊性の可能性について話題提供がありました。また、心理臨床のコアなるものを明確に語ることは難しい作業であるとはいえ、心理臨床のコアの周辺を語り、それを積み重ねていくことで少しずつ明確化されるのではないかとの指摘がありました。大山氏の研究成果や内外の研究成果を踏まえて、心理臨床のコアに関わるものとして、多様な可能性や解釈に開かれた態度、見立てを絶えず修正しながら関わる態度、面接者とクライエント間での身体共鳴の成立、フォローアップ発話中心の関わり等を挙げられました。これらを踏まえて、全てのよい心理療法の基底にはやはりクライエント中心療法の要素が含まれていることと、面接の場で生じていることを把握しつつもそれ以外の可能性に開かれている態度、そしてまだ言葉になる前の自分の微細な心の動きに開かれている態度が、心理臨床のコアを構成するいくつかの側面ではないかという指摘がありました。

by jun_hara | 2015-07-07 21:55

明けましておめでとうございます。


昨年は多くの方々に大変お世話になりました。
ご存じのように私は四半世紀暮らした東京から
実家である兵庫県明石市に引っ越しました。

そしてブログのタイトルも「隅田川のほとりから」から「子午線の通る場所」に変更し
今年は学生時代からの目標であった臨床心理士資格取得のため、
その受験資格条件である臨床心理学科大学院(前期博士課程修了)受験に専念いたします。

そのため音楽活動やFacebookの書き込みも合格するまでは自粛しなければなりません。
かと言ってまったく止めるのではなく
息抜きで楽器を弾いたり情報収集としてFacebookはのぞくと思いますので
今後ともよろしくお願いします。
by jun_hara | 2015-01-01 00:00

僕にとっては...



日本時間で3/22土曜日の朝に観た衝撃のタイトルのビデオ。
老後はチューリッヒでと思っていたから。

荒川さん本当でしょうか?
by jun_hara | 2014-03-22 22:22