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発達障害

e0027033_2155477.jpg発達障害とは、様々な要因によって、生まれ持って脳に障害を持ち、行動に偏りがあったり、苦手なことがあったりし、問題や生きづらさを抱えている障害である。
今のところ生物学的な治療法はなく、療育の対象とされている。
2013年に改定されたDSM-5においては自閉スペクトラム症、ADHD(注意欠如・多動症)、LD(限局性学習症)の3タイプに分けることができるが、これらは独立したものではなく、それぞれが重複して症状が発覚する場合もある。

自閉スペクトラム症とは、これまで広汎性発達障害と言われていたもので、自閉症・高機能自閉症・アスペルガー症の明確な分類が難しいことから、症状の重篤度をスペクトラム(連続体)として診断する前提で一つにまとめられたものである。
具体的な症状には社会相互性の障害、言語コミュニケーションの障害、想像性の障害などがある。
社会相互性の障害は、母親が指さした方に興味を示さないとか、興味を持ったものを指さして母親の同意を求めるなどの態度がみられないといった「共同注意」が成り立たないことや、危険な場所に差し掛かった時に母親が危ないといった表情を見せても理解できず「社会的参照」が成り立たないことなど、発達的二者関係の不成立が挙げられる。
言語コミュニケーションの障害は、「これは何ですか?」と言う問いに「これは何ですか?」とオウム返しするなど、会話によるコミュニケーションが成り立たない障害を指す。
想像性の障害は、具体的事象については理解ができるが、抽象的概念についての理解が難しいことをさし、いわゆる「心の理論」における誤信念課題に答えられない状態を意味し、後の集団生活において、共感・冗談・比喩などの点で問題が生じる可能性が高い。

ADHD(注意欠如・多動症)は読んで字のごとく集中力、注意力が散漫で、じっとしていられないのが特徴で、考えるよりも先に体が動いてしまう衝動性もある。またそれぞれの症状が個別に現れる場合もあり、すべてが当てはまるわけではない。
この症状は対人関係能力に障害を持ち、同じ動作の行動をとったり、こだわりが強かったり、興味を持つものが偏っているというような症状があり、とりわけ学校など集団生活において、「不注意」を怠け者とか、「多動性」をしつけが悪いとか、「衝動性」をわがままとか解釈されがちで、親の教育のせいにされることから発覚する場合も少なくない。

LD(限局性学習症)とは、これまで学習障害と言われていたのもで、全般的な知的発達の遅れはなく、「書く」、「読む」、「計算する」、「聞く」、「推論する」など、能力の中で特定のものや複数が出来ない障害であり、症状が軽いと気づくのが遅れる場合がある。

いずれの症状にしても、脳の器質的な理由が考えられ、親の養育が原因ではない。むしろ、社会全体が発達障害を理解することは、個性にあった教育や支援をすることが重要であり、安易なラベリングに終わってしまっては、後の人生において子供の自己評価を低減させ、うつ病や反社会性といった二次被害をもたらすだろう。

現在のところ、脳の器質的因子が言われているが、その発症原因は特定されておらず、社会病理学的な観点からも研究されなければ、根本的な解決には至らないだろう。
例えば、コンビニ弁当などの添加物だらけといった化学物質の食物や、生活の都市化に関わる職場のストレスとコミュニティの崩壊が夫婦関係に起因する問題など、一見関係がないように思われる社会構造が関わっていることは推察される。
また以前、精神遅滞と呼ばれていた知的能力障害においても、知能検査のIQが年々高くなる傾向を周知しなければ、知育偏重の連鎖に拍車がかかるだけで、個性を無視した早期からの習い事やお受験の片棒を担ぎ続ける教育の歪みから脱却できない。
実際、発達障害とは対照的な、養育者の虐待やネグレクト(育児放棄)による愛着障害も問題となっているが、症状として合併する部分が少なくない。愛着障害は養育者による早期に成立する安心感と信頼感に基づいた絆による愛情欲求の充足不足であるとされるが、発達障害とは気付かず、思い通りに育たない子供に対して虐待やネグレクトをしてしまうケースもあるだろう。
また、境界性パーソナリティ障害などの人格障害とされる事象においても、発達障害である可能性が否定できず、アセスメントにおいても支援においても、生物・心理・社会モデルなど多角的な観点から配慮されるべきである。
また近年、早期発見・早期支援により社会適応していく事例も出てきており、18か月児検診や3歳児検診でも発達検査が実施されているため、周知の徹底が望まれる。

以下、「特別支援教育」に基づく2004年に定められた発達障害者支援法の第一章総則(目的)第一条である。
 この法律は、発達障害者の心理機能の適正な発達及び円滑な社会生活の促進のために発達障害の症状の発現後できるだけ早期に発達支援を行うことが特に重要であることにかんがみ、発達障害を早期に発見し、発達支援を行うことに関する国及び地方公共団体の責務を明らかにするとともに、学校教育における発達障害者への支援、発達障害者の就労の支援、発達障害者支援センターの指定等について定めることにより、発達障害者の自立及び社会参加に資するようその生活全般にわたる支援を図り、もってその福祉の増進に寄与することを目的とする。
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/tokubetu/05011301.htm
by jun_hara | 2015-08-13 21:56 | 情報

DSM-5

e0027033_2150717.jpgアメリカ精神医学会(APA)が作成したDSM(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders:精神障害の統計・診断マニュアル)が世界共通の精神障害(精神疾患)診断基準として広まり始めたのは、1980年のDSM-Ⅲからである。
それまでの精神医学の分類では病因論に主眼が置かれており、その根拠となる理論は共通化されていなかった。
そのため同じ統合失調症でも別の医師から観れば双極性障害であったりと、診断が一貫しておらず、勿論、介入技法も統一されたものではなかった。
そこで学派を超えて、各精神障害の症状や特徴を列挙した一覧表を作成して、その症状や特徴のうち○○個以上が当てはまっていればその精神障害だと診断すること(症候論及び多神論的診断)ができるという、誰もが使えるように工夫された『マニュアル診断』として完成したのがDSM-Ⅲである。
またDSM-Ⅲからは診断基準として
第Ⅰ軸……精神疾患
第Ⅱ軸……精神遅滞(知的障害)とパーソナリティ障害(人格障害)
第Ⅲ軸……身体疾患
第Ⅳ軸……環境的問題(心理社会的問題)
第Ⅴ軸……機能の全体的な適応評価(GAF:Global Assessment of Functioning)
と言った5つの軸からなる診断を基準として設けた。これを多軸診断と言う。
DSM-Ⅲの登場により診断の統一基準ができたことで、世界共通の診断が可能になったことと同時に、あくまでも統計学に基づくマニュアルであり、その後の研究と知見によって改定されることを目的とされたものなので、1994年にはDSM-Ⅳに改定され、2000年にはDSM-Ⅳ-TRに改定されている。
しばらく改定がなされていない中、2013年にDSM-5に改定され2014年に日本語版も登場したのであるが、精神疾患分類名以外で大きな改定となったのは、「多軸診断の廃止」と「多元的(ディメンション)診断の採用」である。
DSM-Ⅲ以来取り入れられていた多軸診断は精神疾患の因子として第Ⅳ軸など心理社会的ストレスなどが尊重されたものであったが、実際の臨床現場においては第Ⅰ軸の精神疾患基準しか用いられていないという現状があり、廃止されたという経緯がある。
多元的診断というのは、自閉症スペクトラムに代表される各疾患単位や各パーソナリティ障害のスペクトラム(連続体)を想定して、各種の精神疾患・パーソナリティ障害・発達障害の重症度(レベル)を『パーセント表示(%表示)』で表そうというものである。
この症状や不適応の重症度のレベルをパーセントで表現しようとするアイデアは、古くから認知療法や論理療法の『自己評価方法(気分が最高の時を100%、最悪の時を0%にするなど)』として採用されていたものでもある。
しかし、自閉症スペクトラムへの統合においてアスペルガー障害の分類をなくしてしまったことで、これまでの知見の蓄積が生かせなくなることや、正常と異常の明確な分類がなくなることで、診断があいまいになり、自己治癒力のある人までも精神疾患に振り分けてしまう危険性などが指摘されており、DSM-5の批判は少なくない。
DSM-5への改定においてこれだけ期間があいたのは、脳科学、神経科学、遺伝子科学の飛躍的な発展に伴い、症状に対する科学的解明が期待されたからであったが、あくまでも統計学の領域を出ないマニュアルとしては統一的見解を出すことに難しさがあったのではないかという意見がある。
と言うのも、DSMに研究や知見が採用されると言う事は、医学者や製薬業界にとっては莫大な利益をもたらすからで、事実、DSMの制作委員会へはかなりの売り込みや政治的な圧力があったと言われている。
by jun_hara | 2015-08-01 21:50 | 情報

コラージュ療法

e0027033_17184076.jpg表現療法としてのコラージュ療法は、雑誌や広告などから写真や絵などを切抜き、台紙に貼って一つの作品を作るという、極めて簡単な方法で自己の内面を自ら振り返るという自己表現が可能となるので、不安や問題点を作品を通して理解することだけではなくて、自らが癒される効果(カタルシス効果)がある。
ストレスの発散、満足感、達成感を得られることだけではなく、言葉にできることは、意識をしたり自分で気づくことができるが、無意識的な自己に気づくことで人と信頼関係を構築するのにも役立つ。

表現療法のひとつに箱庭療法がある。
これは、内側が縦57cm・横72cm・高さ7cmの青い箱の中に砂で自由な空間を創作し、その上に棚に並べられたフィギアの玩具を選んで置いていくといったものである。
この技法はスイスの分析家ドラ・マリア・カルフによって開発されたもので、言語的な表現が苦手である日本人にも有効であるという観点から、河合隼雄が日本に紹介し全国的に広がった経緯がある。
具体的には、心理相談室などに箱庭専用の部屋があり、場と枠に守られた空間において、クライアントが自由にイメージを表出することで、言葉にならない自己像や意識化されていない感情を表現することに意味があるとする心理療法である。
セラピストはクライアントが表現するものを逐一解釈・分析するのではく、その表現活動に寄り添い完成されるのを待つことに留め、クライアントの心に対し共感的に受容することに主眼が置かれる。

箱庭療法が来所型の心理療法であるのに対し、アウトリーチの重要性が言われる中、「持ち運べる箱庭」として提唱されたのがコラージュ療法である。
この療法は主にコラージュ・ボックス方式とマガジン・ピクチャー・コラージュ方式に大別され、詳細は以下の通りである。


・コラージュ・ボックス方式
クライアントのためにセラピストが雑誌、パンフレットから絵や写真、文字などの面白そうな材料を集めて、切り抜き、それを30~50ピースにまとめて箱の中に入れて置く。その中からクライアントは、切り抜かれた紙片を選び出し台紙の上に自由にレイアウトし、貼付ける。
〈長所〉あらかじめ危険なイメージなどを除いて、相手に合わせて内容を調整できる。年代、性別に合わせて、複数の箱を用意することや、箱に入れての持ち運び可能がであるし、制作時間の短縮にもつながる。クライアントは、自分自身で切り抜くよりもまとめることが容易になる。
〈短所〉集団的使用に難点。セラピスト側の想像力による制限がある。セラピスト側にあらかじめ切り抜く手間がかかる。
・マガジン・ピクチャー・コラージュ方式
雑誌、パンフレットから絵や写真などの材料を用意し、クライアントはそれを自ら切り抜きる。雑誌などをセラピスト側が用意する場合と、クライアント自身が自ら持参する場合がある。
〈長所〉集団的使用に適する。クライアント自身の身近な材料を選ぶことができ、セラピストの予想を超える表現が生まれる可能性がある。
〈短所〉切り抜き内容が相手まかせであるために、クライアントの想像力による制限がある。制作に時間がかかる。

とりわけ、コラージュ療法は重度の身体障害者など、自らの身体を使って表現できない人達に対しても、セラピストが出来うる限りの準備をすることで表現の補助をすることが可能であり、技法の活用範囲が広いと言える。
by jun_hara | 2015-07-31 17:18 | 情報

愛着(アタッチメント)

e0027033_22543178.png辞書で「愛着」とは、長い間親しんだ物などに心が強くひかれて離れられない気持ちとある。
一方、心理学用語である「愛着(アタッチメント)」も二者間、とくに親子の間の「愛情の絆」を意味するものと考えられているが、もともとの意味は、文字どおり他の個体への近接(アタッチ)を通じて、安心感を回復・維持しようとする傾性のこととなる。

イギリスの児童精神科医であったボゥルビィは、個体が危機的状況に直面し、あるいは危機を予知して不安や怖れなどのネガティブな感情が強く喚起されたとき、特定の他個体にしっかりとくっつく、あるいはくっついてもらうことを通して、主観的な安全の感覚を回復・維持しようとする心理行動的な傾向を「愛着(アタッチメント)」と定義づけた。つまり、不安や怖れなどの感情の乱れを自己と愛着対象との間の関係性(二者関係:対幻想)によって調節する仕組みが愛着(アタッチメント)であり、愛着対象への接近可能性や愛着対象の情緒的応答性に関する表象モデルをボゥルビィは「内的作業モデル(internal working model)」と呼んだ。

たとえば、危機に際して逃げ込み保護を求める「安全な避難所」としての経験が子どもにとっての愛着対象は安心できる人として認識され、感情状態が落ち着きを取り戻した時にそこを拠点に外の世界に出ていくための安全基地として機能することになる。

こうした愛着経験(内的作業モデル)は内在化され、対人関係のテンプレート(雛形)となる。
養育者との愛着関係を離れて、対人情報を知覚、評価、予測し、行動プランニングを行うことを「愛着パターン」と呼ぶ。つまり対人関係のパターンの基盤となる対人世界に寄せる信頼や自尊感情が「愛着パターン」ということになる。
一方、愛着対象である養育者(主に母親)の愛着希求に対しての情緒反応性を「ボンディング(bonding=絆)」とか「母親からの愛着(Maternal attachment:マターナル・アタッチメント)」と呼ぶ。
愛着が成りたつためには、子ども側の愛着要求と愛着対象の情緒反応性が呼応することが必要であるが、ここにはさまざまな問題が関与してくる。

子どもへの情緒反応性の問題は「ボンディング(絆)の障害」子どもの愛着要求の問題を「愛着障害」そして通常の二者関係の問題としての「関係性の障害」という3つのパターンに分けられる。
愛着(アタッチメント)研究の流れも、愛着(アタッチメント)の質を個人の特性とみなす流れから、相対的に友人関係や恋愛・配偶者関係、およびそれらの中での孤独や葛藤、感情調節などなど、愛着(アタッチメント)を二者関係の特質や状態とみなす傾向が出て来ている。

対人関係の基盤となる「愛着パターン(あるいは愛着スタイル)」そしてその核心である「内的作業モデル」の成長に伴う変化や適応、「愛着障害」や「アタッチメント(愛着)関連トラウマ」「発達性トラウマ障害」など「対人トラウマがかかわる疾患(PTSDなど)」との関係、「慢性うつ病性障害(気分変調症など)」の自尊感情との関係、それから対人関係療法などの心理的援助において愛着をどう扱うのかなどの応用について、今後の実践的データの蓄積が期待されている。
by jun_hara | 2015-06-28 22:57 | 情報

心の理論


「心の理論」は、ヒトや類人猿などが、他者の心の状態、目的、意図、知識、信念、志向、疑念、推測などを推測する心の機能のことである。
もっとくだいて言えば「心の能力」の理論と言った方が解り易い。
十人十色と言われるように、人には人の考え方があって、他者にも自分と同じように心(主観)が存在するのだと言う事を認知できる能力を指す。
まるで当たり前のように思う方が自然かもしれないが、人の発達におけるこの能力の体得は、今の心理学の中心テーマになっている。

哲学者ダニエル・デネットは子供が「心の理論」を持つと言えるためには、他者がその知識に基づいて真であったり、偽であったりする志向や信念をもつことを理解する能力、すなわち誤信念を理解することが必要であると示唆した。これに基づきハインツ・ヴィマーとジョゼフ・パーナーは心の理論の有無を調べるための課題を提案した。これを誤信念課題(False-belief task)という。この課題を解くためには、前述したように他人が自分とは違う誤った信念(誤信念)を持つことを理解できなければならない。

最も有名な課題がサリーとアン課題(Baron-Cohen S, Leslie AM, Frith U (1985))である。
1.サリーとアンが、部屋で一緒に遊んでいる。
2.サリーはボールを、かごの中に入れて部屋を出て行く。
3.サリーがいない間に、アンがボールを別の箱の中に移す。
4.サリーが部屋に戻ってくる。
上記の場面を被験者に示し、「サリーはボールを取り出そうと、最初にどこを探すか?」と被験者に質問する。 正解は「かごの中」だが、心の理論の発達が遅れている場合は、「箱」と答える。

この課題により、人が「心の理論」を体得するのは4歳だとされている。

しかし、この課題は言語の文脈が理解できる発達年齢であり、いわゆる言語能力を体得する前に、この能力は体得されているのではないかという反論があり、実証実験されたのが今回の動画である。
乳幼児は言葉を発することは出来ないので、一般的には乳幼児の事物に対する注視時間の長さを持って測定することになる。

この能力が注目されるのは昨今言われる自閉症スペクトラムと関連があるからである。
健常児が4歳ごろから解決可能になる誤信念課題を自閉症児がなかなか通過できないことで知られている。この結果に基づき、自閉症の中核的障害が「心の理論」の欠如にあるという考え方が提案されている。ただし、すべての自閉症児が誤信念課題に失敗するわけではなく,通過する自閉症児も一定の割合でいること、そしてこのような実験が言語による教示を解するいわゆる「高機能」の自閉症児に対して行われてきたことなど、「心の理論欠如仮説」に反する証拠も存在する。

いずれにせよこの概念の研究は認知神経科学や進化心理学で脳の活動と関係があることがわかりつつある。
また、これまで心理学的な概念としてあった高次の心的機能である「共感的理解」や「社会的規範」の認知などが、脳の活動とのつながりで実証される日も近いと期待されている。
by jun_hara | 2015-06-28 00:46 | 情報

高木仁三郎先生について

ここで僕がいつから反原発を意識しだしたかについて、避けて通れない存在である、高木仁三郎先生について、
そしてそのきっかけを与えてくれた朝倉俊夫(仮名)君に触れておきます。

僕と彼とはYAMAHAを通じた音楽仲間で、1999年、Natural Waysというユニットを組んでライブをやっていました。
当時、彼は高木仁三郎先生が立ち上げた原子力情報資料室にて反原発の活動をしていました。
詳細は書きませんが、僕も彼の活動を陰ながら援助していたし、環境問題、軍事産業の定義の難しさ、そして原子力やプルトニウムの情報を得ていたのです。

しかし高木先生が末期がんになり他界された後、彼はこのNPO法人から去ってしまいました。
それからは彼と連絡が取れなくなりました。
1998年12月、僕の四谷コタンライブ出演後、打ち上げで市ヶ谷にあったレストランに同席された方は解るかと思いますが、彼の中国語はネイティヴレベルでした。
しかし、作詞は恋愛経験がないためラブソングとしては稚拙で、作曲はコードを理解してなかったし、正直音痴でした。
それでもライブでは「自分の唄は自分で唄え」と命じメインボーカルは彼にして、僕はピアノ伴奏とコーラスにまわりました。

彼が原子力情報資料室に入る前の経歴
京都大学文学部卒業、同大学修士課程進学。専攻は中国文学。
しかしチェルノブイリ原発の現実を知って中途退学し、高木先生に師事する為、上京。
原子力情報資料室のスタッフになり、NPO法人認定に奔走。

以下、高木仁三郎先生に絡む動画です。

科学を人間の手に - 高木仁三郎
NHK教育テレビ「未来潮流」1999.2.6


小出先生の高木先生に対する認識

反原発のカリスマ 市民科学者 高木仁三郎(1)

反原発のカリスマ 市民科学者 高木仁三郎(2)


この世の終わりの雨が降る前に
作詞作曲:朝倉俊夫
編曲:原淳
(収録日:2011-03-24)

この唄はメッセージソングではありませんが、彼が一番広めたかった歌だったので
僕のボーカルで収録してみました。

以下その歌詞です。

暗い街角さまよう夜には愛しい面影を探す
風に揺れる長い髪と清らかな瞳を
夢を叶える道も閉ざされて 闘うすべ術も奪われて

人を思う心さえも殺されそうだけれど

この世の終わりの雨 降る前に君に好きだと告げよう
寂しさに震える胸の耐えきれない思いを
この世の終わりの風 吹く前に君に好きだよと告げよう
君と共に歩めるなら何も怖くないから
だから涙でずぶ濡れになっても
紅い傷だらけになっても 冷たい石投げられても
とにかく生き残ろう
そして僕の寂しさの全てを
僕の苦しみの全てを
どんなに君を愛しているのか 早くわかってほしい
急がなければ
この世の終わりの雨が降る前に

全て失われる日が来るまで時は残されているのか
君に思い伝えるまで僕は生きられるか
生まれてきた意味を探しながら
君の名を呟いてみる

その笑顔を僕のものにする時まで
死ねない

この世の終わりの雨降る前に
君を熱く抱きしめよう
教えてほしい
その胸に深く秘めた痛みを
この世の終わりの風吹く前に君を熱く抱きしめよう

思い切り愛してみせる
僕の命を賭けて
たとえ全てが滅びる定めでも 暗闇がいくら深くても
歯を食いしばり 腕を組み
とにかく前へ進もう
いつか僕らの流した涙が 僕らの切ない歌声が
僕らの歩んだ足跡に花を開かせるから
急がなければ
この世の終わりの風が吹く前に

この世の終わりの雨 降る前に君に好きだと告げよう
寂しさに震える胸の耐えきれない思いを
この世の終わりの風 吹く前に
君に好きだよと告げよう
君と共に歩めるなら何も怖くないから
だから涙でずぶ濡れになっても
紅い傷だらけになっても
冷たい石投げられても
とにかく生き残ろう
そして僕の寂しさの全てを 僕の苦しみの全てを
どんなに君を愛しているのか早くわかってほしい
急がなければ
この世の終わりの雨が降る前に

急がなければ
この世の終わりの雨が降る前に


by jun_hara | 2015-05-03 11:55 | 情報

後藤田氏かく語りき・・・

2015/2/22放送 TBS時事放談で紹介

2004/12/5放送 TBS時事放談

後藤田正晴元副総理...これは私の遺言だ。
戦後60年振り返ってごらんなさい。
アメリカぐらい、戦争している、
あるいは海外派兵している国はありません。
朝鮮戦争からベトナム戦争
それからアフリカでの戦争、中東での戦争。
毎年平和だって言って、どこかで戦っている。
これに、いつまでも
お付き合いできますか。
戦後60年の間に、
日本の自衛隊によって
他国の人間を殺したことは、ないんですよ。
それからまた他国の軍隊によって
殺されたこともない。
先進国でこんな国は、日本だけですよ。
これは本当に誇るべきことだと思う。
これだけは、頭の中において
政治の運営をやってもらいたい。
by jun_hara | 2015-02-23 09:45 | 情報

反原発は20世紀からあった。



これは1999年にNHKスペシャルで放送された内容です。
今回の動画は反原発を訴えていた故・高木仁三郎先生の最後の公演を中心に記録したものです。

当時、僕は新宿のYAMAHAシンガーソングライターコースで知り合ったF君と交流を深めていました。
F君は京都大学大学院で中国文学を研究した後、
チェルノブイリ原発事故をきっかけに高木先生に共感をおぼえ
原子力情報資料室のNPO法人化と原発反対運動の中で活動をしていました。

その後の経緯はともかく
にわか原発反対ではなく、
科学者にとって、この時点で原発の危険性は明らかだったのです。
この講演を最後に高木先生は他界されたのですが、
その意思は受け継がれていくべきだと思います。
こと、原発に関しては絶対に。

小出裕章
先生がその意思を受け継いで、
この活動がただの流行にならない事を祈っています。

ついでながらその証拠として、この動画には一瞬僕の後ろ姿も映っています。
by jun_hara | 2014-05-25 20:14 | 情報

官僚や学者達の常套手段

以前、FBで「文章は量ではなく質」と言うトンチンカンな論争を仕掛けてきた頭でっかちがいるのですが
この本内発的動機づけを読むことをお勧めします。

1980年が初版なので、古い内容ですが、
官僚や学者達はこれを逆手にとって、無学な政治屋を手玉に取っているカラクリが理解できると思います。

結論から言うと旧・国立一期(東大、京大、阪大、神大など)でお勉強した人には
体験し難いかもしれませんが、人間には食欲求、睡眠欲求と同じく情報欲求と言うものがあるのです。
要するにその欲求には下限があれば上限もある。
人それぞれ、一定の許容量を超えたら、流し読みするのも難しいのです。
つまりは萎縮してしまう。
情報リテラシーの難しさは刻々と増しています。

学歴偏重社会では、医者などお偉いさんに対して、反論する力はない。
その場では「先生わかりました」と呼びながら去るしかない。

僕も含め、書いている当事者には忘れがちですが
学会ならともかく、FBに投稿するなら、最低限文章量に気を配るのが当たり前でしょうが。
勿論、論文なら正確かつ具体的に文章は書くべきでしょうが、それならブログやhtmlのリンクにしてしまえばいい。
例えば、詳しくはコチラ!と言うくらいの配慮があるべきなんですよ。
それなら「無視すればいい」と言う意見もごもっとも。
しかし、簡単にそれができるほど人は強くありません。
特に日本人は。

こう書いている内容についても、
「お前が先生になればいいじゃないか」と言う言葉には呆れました。
実社会を経験せずに学校の教師になるほど、当時の僕は愚かでもありませんでしたし
教職課程は放棄しました。

実際のアルバイトや奉仕活動で、高校生から社会人に至るまで、
子供たちへ教育することをやってみて
軽軽に教える側に立つべきではないと思ったからです。
特に歴史教育はその中軸ですから。
まして、今の教育現場に関わりたいと思う程、愚かでもありません。

これを変えるには在野でなければ難しいのです。
たとえ最後はホームレスになっても、
僕は「先生」と呼ばれる器ではないし、教養も時間もありません。

あえて今は「どうすれば情報を含み、格差を是正できるのか」思案している最中です。
自分にどこまでできるかの保障はないにしても、まず草の根から。
by jun_hara | 2014-05-17 23:06 | 情報

河合隼雄先生の心理学



僕の敬愛する故・河合隼雄先生(京都大学教授)の講演録です。
母が現役の幼稚園園長だった頃、兵庫県の教育界に多大な力があったので、
僕の恩師・田中國夫(関西学院大学教授)を講師に招いたこともあったのですが
流石に河合隼雄先生を招いたことはありませんでした。
しかし、関西での話ですから母は何度も河合隼雄先生の講演は聴いています。

わが母の恩師の評価は酷評だったので詳しくは書きませんが
河合隼雄先生の話は
「聴いている時には、なるほどと思うけど、
思い返すと、訳がわからへんようになる」と言っていました。
そりゃそうです。
分析心理学(ユング心理学)は、物語るもの(事例研究)であって、
方法論が精神分析学(フロイト心理学)のように自然科学が土台にした因果律を軸としていませんから。

この難解さについて分析心理学は長きにわたり実証主義の科学ではないとして批判されてきたのですが
そもそも「心」を自然科学として定義するのには無理があるのです。
僕が専攻した社会心理学においては「態度」と言う概念に限定して
社会科学的に研究されたものでした。
要するに、「深層心理」には触れず、
統計学などを用いた「意識(または意見)分析」の域を出なかったのです。
正確には行動科学と言われるアメリカの心理学です。

僕はゼミを専攻する前の半年間、素人ながらも不登校児の家庭教師をしていたのですが
それまで独学していた精神分析学では子供の心を理解できませんでした。

この答えを導いたのは河合隼雄・著コンプレックスでした。
兎に角、難読書でもあり、自覚反省を伴うものでしたから、受け入れるのには時間がかかりました。
これも何の因縁か、恩師のゼミに入る1か月前、プレゼミということで読まされ、発表を行う課題だったのです。
つまり、恩師のゼミに入らなかったら、河合隼雄先生のことも知らなかったのです。

実は僕もK.G.ユングのことは詳しく知りません。
僕が興味を持ったのは河合隼雄の心理学でしたから。

僕は学生時代、京都まで同じゼミの女の子と河合隼雄先生の講演を聴きにいったことがありました。
その時に印象的だったのは、質疑応答で河合隼雄先生自身の事を聴いた聴衆に対する答えでした。
それは憤慨したような様子で「私は私のことを語るのが嫌いです」と言った内容だったのですが
先日読み終えたこころの最終講義には、自身のことが多々書かれていました。
と言うより晩年の講演録ですから、語られていたからです。
あとがきに、息子さんもそれについて「興味深い」と書かれていました。

要するに現役の臨床心理士は、軽々しく自らの経験や主張を語ってはならないと思ったのです。
今読んでいるノンフィクションライター最相葉月・著の新刊本セラピストは河合隼雄先生や臨床心理学の入門としてはお勧めです。
by jun_hara | 2014-04-26 22:35 | 情報