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社会から切り捨てられる人について

【育ちのいい江戸っ子】

この25年、東京に住み続け、振り返ってみれば
多くの人が喧嘩や対立について
見事に回避する術を身につけていることに驚かされてきた。
とりわけ東京生まれの東京育ちで
しかも山の手側で育った人達に多かったように思う。
恐らく、過密な人だらけの環境において
子供の頃から対人距離の測り方が教育され
身についていったのだろう。

この人達が頑固者の上司や同僚に関わる状況では
初期段階だと、深く関わる必要がなくなるように距離を置き
徐々に自分に対立が生まれないよう味方につけてゆく。
そして自らの主張を一切口にすることもなく
相手の言い分を微笑んで聞いている。
それでも難しい場合は
断ち切る事に未練のかけらもないがごとく
見事なまでに無視をするか、立ち去って行く。

【東京人化する首都圏在住の地方出身者】

会社組織において終身雇用が崩壊してゆく原動力は
ここに主要因があったのではないだろうか。
要するに東京では「所属集団の選択の幅」が圧倒的に広いのだ。
一つの縁を断ち切っても、次の縁がすぐに手に入る。

多くの若い人が地方から東京に出てきて
Uターンしない(またはできない)一つとして
地方では、この「所属集団の選択の幅」があまりにもないからだろう。

これは他人ごとではなかった。
僕が挫折や失敗を繰り返しながら東京で生き残れることができたのも
「所属集団の選択の幅」があったからで
気づかぬうちに、この「育ちのいい江戸っ子」術も体得してきたのだと思う。
それが田舎で生きていくことが出来なかった自分が
自らの居場所を東京で見つけていく術でもあったのだから。

【村社会にあたる集団】

こんなことを考えていたら
20年以上前、レンタルビデオで観た映画「会社」を思い出した。
この映画は、定年退職をする初老の男性を主人公にし
これまで所属してきた会社について振り返るものであった。
そして主人公が言う「会社」とは「村」であるとの結論だった。
確かに僕が経験した昭和時代の地方の会社とは、
このイメージと合致する。

コミュニティや同好会も含め、おおよそ「村社会にあたる集団」においては
自らもその成員であり、すぐに逃げ出すことができない以上、
意見の対立はあって当たり前である。
そして他の成員から受け入れられることが出来なければ
無視と言ってもいい「村八分」という制裁が待ち受けている。

【その場をしのぐには】

このリスクを回避するには「いいひと」にならなければならない。
そのためにはテキパキと愛想よく振る舞う訓練をしていなければ難しい。
具体的には、他者がある対応を求めたら
それに対して気分を害さない対応を示さなければならない。
この学習においてサービス業では徹底的にマニュアル化され教育される。

一番わかりやすい例ではコンビニの店員だろう。
もし客の対応で、マニュアル通りの対応が難しい場合
店長か先輩店員を呼んで助けてもらう。
この行動さえマニュアル化されているのだから。

【マニュアル化の影】

この成功事例は全国展開をするコンビニを始めとするサービス業に於いて
マニュアル通り対応できる人間を地方にもばら撒いていることになる。
そこに地方独自の文化存続を言い訳にする余地などはなく、あくまでも画一的に。

しかし全ての日本人がこのマニュアル通りにできるわけではない。
例えば製造業などで機械相手に仕事をしてきた人には
長い間、生身の人間に対して接してきた時間が少ないため
リアルな対人対応の訓練はしてきていない。
いきなり「マニュアル通り対応能力を身につけよ」と言われも
できるはずがないのだ。

【コンビニに外国人労働者が多いのは】

全国展開するサービス業のマニュアルにある記述には
具体的な店員と客の会話の事例が書かれている。
研修ではこれらを憶えることに集中される。
裏を返せば店員はロボットにプログラミングされたように動くことを条件とされる。
そこには最初から生身の人間に対する感情は排除されているのだ。

意識しなければならないのは
いちいち客を一人の人間として考えるのではなく
単純にマニュアル通りやればいいだけである。

外国人労働者がコンビニの店員として増えているのには
出身国の賃金に比べれば労働条件がいいからだけではなく
これらの割り切りが最初からできているからではないだろうか。

【中年期世代の引きこもり増加】

ある意味この現象は賃金の安い人手不足にあるサービス業界にとって
需要に応えているので、なんら問題はないように思える。
しかし日本人の場合、前述した製造業などの正規雇用から
リストラされた人達において、このような割り切りは難しい。

正規雇用からアルバイトと言う
不安定な境遇を受け入れる葛藤だけでなく
マニュアル通りの訓練として
いきなり「お前もロボットのように動け」と言われているようなものであり
そこには個人の人間性など排除した要求をされているのだから。

多くの引きこもりと呼ばれる人達が30代~50代に増えているのには
このような葛藤が主要因にはなっていないだろうか。

都会で一人暮らしであるならば、否応なく生き残るため
この要求に応えられるよう、努力するしかないと割り切れるかもしれない。
それが出来ない場合、実家に帰るしかない。
但し、就業できる条件が整っている場合に限る。
そうでなければ生活保護を申請するか、ホームレスになるしかなく
これも受け入れることが出来なかった場合、自殺するしかない。

しかし首都圏で親元から就労してきた人には
これまでのプライドと、耐えがたい要求と境遇から
人間性が排除され、心折れて引きこもってしまうのも不思議ではない。
ましてや生活保護制度は利用できないしホームレスにもなれない。

その親や家族が接するには、同居人の将来不安で解決法が見つからず
藁をもすがる思いで、精神科とか心療内科へと駆け込むようになっていないだろうか。
しかし、精神科とか心療内科の医者ができることは
対処療法的な薬の処方であって
子供が社会復帰するための答えを出すわけではない。
むしろ薬物依存という問題を増長しているだけで
なんら根本的な解決策にはならない。

【こころの整理の必要性】

元々が前述したように、労働環境の激変により就労箇所が見つからない訳で
苦しんでいる人達は別に精神が病んでいる訳ではないのだ。

ここで求められるていることは、数学のような一つの答えではない。
それぞれの境遇において「今後の人生をどう生きていけばよいのか」であり
それを出すのは個人個人の心次第である。
出来るなら、これまでの人生を振り返り、
今の境遇に対しての苦渋に伴う感情を「誰か」にさらけ出して
こころの整理をすることが必要と思われる。
真の自立には援助を必要とすることを認め、それを発信する力がいる。
それを「甘え」と呼んで切り捨てる人もいるが
現代の日本人に求められる「甘え」とは、こういった力ではないだろうか。

バブル後、終身雇用制が崩壊していると言われて20年以上経つが
それ以前に就職し正規雇用で働き続けることができた人達は
未だこの終身雇用神話が終わっていることに覚悟ができているとは言い難い。
ましてや、高度成長期に働くだけ働いて定年を迎えた親の世代に、
今の中年期の危機について共感を要求しても無理だろう。

この「こころの整理」を導き出すために必要な援助があるとするならば
それこそが真のカウンセリングであると思う。

【求められる援助とは】

ここで重要なのはその「誰か」が「誰なのか?」である。
少なくとも前述したように、この役割を親や家族に求めるのは難しい時代である。
また、全くの他人がその「誰か」になれるほど簡単なものではない。

人生観の大転換を求められている境遇に対して
覚悟を決めなければならない状況にある人への対応は
ちょっとした親切心で関われる程、マニュアル化されるようなものではなく
聴く側がそのプロフェッショナルでなければ難しい。
それこそが対人援助の心理臨床職を生業としている人に
求められる条件ではないだろうか。
そしてその具体的な資格の一つが臨床心理士であると思う。

【心理職の国家資格化】

残念ながら日本では、臨床心理士が行うカウンセリングは国家資格として認められていない。
言い方を変えれば、誰でもカウンセラーを名乗る事ができる。
なのでネットでも多くのカウンセラーを名乗り、
いかがわしいカウンセリングをやっている者も存在するが、
これは違法ではない。
ただ気を付けてほしいのは、医者のようにカウンセリングを「治療する事」と言ってはならない。
現在の日本ではカウンセラーがクライアントに対して「治療する」と言ってしまったら、その時点で違法となる。
皮肉なことに、この表現が許されているのは精神科医をはじめとする医者だけである。

また心理療法やカウンセリングは医療行為として認められている国家資格ではないので、
社会保険の適応も一切ない。
よって、事実上1時間1万円弱程度を相場とするカウンセリング料金の全額は個人負担となる。
日本で心理療法やカウンセリングが普及していないのは、この問題も大きい。
公認心理師法案など、現国会に提出されている「心理職の国家資格化」が必要であることに違いないが
12月の解散が現実になれば、その成立はまた先延ばしになってしまう。

今の臨床心理士が公認心理師として国家資格になるのかは多くの異論反論もあるが、
上記のような心の問題については、国を挙げて考えなければならない急務であることに間違いはない。

【臨床心理士の現状と課題】

ただ中年期をクライアントとする臨床心理士が圧倒的に足りない事も事実である。
臨床心理士と一口に言っても、クライアントの需要がなければ成り立たない。
この資格取得者の70%は女性であり、具体的な職種はスクールカウンセラーが圧倒的に多い。
勿論これは社会からの需要があって法制化され、国からの補助により成り立っている。

また臨床心理学には多くの学派が存在し、それぞれが得意とするクライアントの対象としては
人生の前半にあたる児童・青年期の人が多いのも事実である。

要するに中高年の男性に対して心理的援助をする環境はまだまだ整ってはおらず
前述の引きこもりのクライアントなどを受け入れられる環境整備も
十分できているとは言えないのが現状である。

社会で必要となる要望は各世代で多々あるが、
この働き盛りとも言える時期に引きこもっている人の問題と
その要望に応える職業人の育成環境はまだまだミスマッチの状況である。

アサーショントレーニングやフォーカシングと言った健常者への対人スキル訓練は
大企業などからの需要もあり、ビジネスとして成り立っている事例もある。
しかし、これらの訓練手法は前述したマニュアルに近いもので
心理臨床において個人の深い心の問題に携わるわけではない。
また、事例研究の蓄積と臨床心理士の育成とは不可分であることから
この分野の症例に対しての研究の積み上げも急がれる。
社会から切り捨てられる人についての対応は、まだまだこれからであるのが現実なのだ。
by jun_hara | 2014-11-16 22:02 | 独り言

キャリアデザイン

CTとかあらゆる検査をしてもらったけど、全く異常なし。
しかしそれならなぜ、偏頭痛やら血尿やらがあるのか解決できていない。
おおよそは人生の一大転換をしようとしているストレスと言うか、心因性なのだろうと思う。

【心理相談の現状】

本来心因性なら、これはこれでセラピスト※1に頼るべきことなのだが、
私がアプローチしてきた限り、残念ながら日本ではこれらに対応できる臨床心理士には出会っていない。
※1.ここではカウンセラー,心理療法家と同意語として用いる
ましてやカウンセリングには保険適用がないので
民間のカウンセリングの場合、東京では実費1時間1万円が相場である。
大学院の心理相談室ならばインテイク面談も含め3,000円~4,000円が相場であるが、
担当するのは臨床心理士ではなく、それを目指す大学院生である。
大学院生は同大学の教授や臨床心理士資格を持つ准教授など
スーパーバイジングを受けながら事例に対応する。
よって、殆どが実社会の経験がないため、人生相談が出来るレベルの対応は不可能に近い。

【なぜ臨床心理士になりたいか】

これまで自分が情報処理業界と言う
技術革新に伴う変化が激しく
技術マッチングも難しく
景気動向に左右されやすい世界で
プロジェクトチームと言う小集団を形成し
SE・プログラマーとして就労してきた中で
レイ・オフやドロップダウン、はたまた家庭崩壊、自殺、過労死を何度となく観てきた。
私が臨床心理士を目指すことに決めたのも、
今の日本ではとりわけ正規非正規問題など、労働環境の格差が広がるばかりで、
その現状に対処するにはカウンセリングの普及が必然と思ったからである。

【心理学との出会い】

これは最近の思い付きではない。
私が初めて心理学(正確には精神分析学)の書籍自己愛人間小此木圭吾・著と出会ったのは大学1回生の時であった。
著者自身が精神分析学者であり性的エネルギーであるリビドーを中心に据えて書かれている事と
私自身が性欲盛んな思春期という事もあってか、この精神力動説について無防備に受け入れていった。
要するに「心とは何か」と言う問題に意識し始めた頃である。
一般教養科目でも心理学は1回生で履修したが、
殆どは基礎心理学の羅列だったので、試験前にしか集中勉強した覚えはない。

【臨床的経験の挫折】

2回生秋になって、友人から不登校の中学3年生女子の家庭教師を頼まれた。
まずは彼女の勉強に対する好奇心がどれくらいあるかを見立てるため
今自分がどこにいるかを地図として描きながら
今いる家→町→市→県→国(勿論、日本)→世界地図
の順で白紙に拡充しながら描き、説明していった。
彼女はわき目も振らずそれに傾聴していった。
その時点で個人的に学業の伝授は可能と判断し家庭教師を引き受けた。
それからの半年、このアルバイトに関わる事が生活の中心になった。
不登校と言っても断続的には登校していることもあり
その後のカリキュラムは自分なりに整理し行う事にした。

まず初日には1週間後に「鎌倉時代の試験がある」と告げられた。
しかし彼女は日本史について中学になってからの知識はほぼ0に等しかった。
兎に角、好奇心を引き出す事がどんな教科にも有効であり
認知心理学でいう長期記憶として残すのには
歴史上の登場人物を身近に想像できる人物と照らし合わせて物語り授業を行った。
その結果、試験に於いて40点と言う奇跡的な成績を残したことから
向学心も増して、次の目標を継続的な登校へと切り替えた。

週1度の授業の前半1時間くらいは、勉強とは関係なく
彼女の1週間のことについてヒアリングし
それに対して受容的態度で傾聴すると言った時間に費やした。
所謂「にわかカウンセリング」のようなものである。
勉強については、学校から届けられるものについて克服していくだけにとどめ
高校受験自体は意識しないように進めていった。

しかし、目標としていた不登校の克服については
一向に改善がみられないことと、私自身が3回生からはゼミが忙しくなることで
大学の近所に引っ越しをすることが決まっており
勿論、彼女自身も中学を卒業するわけであるから
その進路について私自身が焦り始めた。

結果としては、最後の授業において
私が彼女に不登校について不安を感じていないことに対し
「父性原理の必要性」として自らを正当化し叱責すると言う結末になり、
「にわかカウンセリング」について大きな挫折となった。
そして、市の教育研究所へ赴き、現状をすべて説明し引き継ぎ依頼をすることにした。
※後日談になるが、3年後、制服を着て高校に通う彼女を見かけることによって
 言い切れない安堵感を憶えたことも印象に残っている。

【反省と分析心理学(ユング心理学)との出会い】

ここにおいて3月中にゼミから研究発表として課題となった本がコンプレックス河合隼雄・著だった。
これは知る人ぞ知る難読書でもあるのだが、
別の障壁として前述の挫折が受け入れがたいこともあり
なかなか理解が進まなかった。
しかし、思春期における親離れについて必要な自立心の現れと母性との決別に至る心的葛藤の大変さ
そしてそれを乗り越えるためのイニシエーションの必要性と言った考え方が腑に落ちて
自らがやってきた安直な「青年期の発達心理に対する認識」について思慮の浅さが明確になった。
それと同時に「常時登校しなければならない」と言う先入観に縛られていた自身の意識をも恥かしくなった。

それからは否応なく専攻である社会心理学とゼミの活動が生活のすべてになった。
しかし自分自身が臨床心理学と社会心理学について
全く対象とする研究課題や方法論の違いを知っていなかったので
無意識を扱わない社会心理学については
卒論のために必要なものと言うレベルでしか興味が持てなくなっていった。
とどのつまりは、個人的に自由学習できる暇があれば臨床心理学・カウンセリング心理学関連、
とりわけ河合隼雄氏、小此木圭吾氏、国分康孝氏の著作本を読み漁っていた。
また、一般参加できる河合隼雄氏のセミナーがあれば、京都まで足を延ばしていたくらいである。

4回生のゼミでは就職対策として自らが一番影響を受けた本について発表する機会があった。
私が選んだ本は当時、学術的最新書籍の心理療法論考 河合隼雄・著 (1986/2) であった。
当時、我々の同期では、誰も社会心理学の本を選んだ者はいなかったので
重い空気が漂ったことを憶えている。
これに参加した准教授(当時の表現では助教授)からは、
誰もゼミ担当の教授の書籍を選んだ者がいなかったことに苦言を呈される場面もあった。

話がそれたが、それ程、私自身の「心とは何か」と言う見解にはユング心理学と言うか
河合隼雄氏の心理学(カワイアン)の影響が大きく
やがてユング派の教育分析を修了して人格完成を目指し
真の心理療法家になりたいと思っていったのである。

しかし、当時は臨床心理士と言う認定試験もなく、スクールカウンセラーと言った社会制度も存在しなかった。
それに父の影響か、教職であれ福祉であれ、
民間社会で自らその過酷さを経験していないと、
説得力がないと思っていたこともある。
よって、いずれ年老いたらカウンセラーになるのもいいだろうと言う考えで、
社会人になってからは、時間があれば現実の生活と照らし合わせ
心理療法、カウンセリング心理学を問わず書籍にて独学をしてきた。

【若い頃の目標が現実には】

私の場合、この「年老いたら」という事と「民間社会を経験する」と言う事は
なまじ間違ってはいなかったようだ。
この30年で、バブル崩壊と共に始まった年功序列・終身雇用など日本固有の神話は崩壊し
日本自体が世界でも経験をしたことのない少子高齢化を迎え
ネットなどを含むコミュニケーション手段も変化し
あらゆるコミュニティが危機に直面している。
それと共に当たり前と思われてきた所謂「時代精神」が一変したのである。

それまでの日本的常識をよりどころとしてきた人達は
GDP3位と言う経済大国でありながら、
将来に希望が持てない社会不安を抱える異常な社会病理の中にあり
いかに生きるべきかの答えに窮する状態にある。
ここに心理療法やカウンセリングの必要性が出てくるのであるが
臨床心理士は現在でも国家資格ではなく文科省による認定資格に留まっている。
ましてや対人援助職の世界において、臨床心理士の認知度は低く、
2014年の現時点では資格をとったからと言って、
そのハードルの高さに見合う収入や安定は期待できない。

【対人援助職としての臨床心理士の現状】

本来はこれらの対人援助が機能していれば、
年間3万人を越える自殺者などありえないと思うのだが、
どうしても社会福祉士(ソーシャルワーカー)など対人援助職の方々の連携は、
歴史的にも医療とは深いこともあり、
心の問題となると、臨床心理士ではなく精神科医へのコーディネイトになってしまう。
勿論、社会福祉制度として心理療法が保険適用外であることも大きい。
最近でこそソーシャルワーカーなど他領域の専門家が効果的な援助が出来るよう
コンサルテーションを行うような活動が始まりつつあるが
スクールカウンセラーが教員に対して行うコンサルテーション程には
普及していないのが実状である。

残念ながら精神科医は臨床心理士のようなカウンセリングの立場としてクライアントに接することはない。
これは順天堂大学のメンタルヘルスを訪問して
実際に自らクライアントとして確認したことであるが
精神科医はあくまでも薬学療法を行う立場でしかない。
また、常駐の臨床心理士は心理査定(アセスメント)を行う役割としてだけに存在していた。

心の問題は病態水準によって大きく3種類のレベルに分類される。
1.神経症レベル
2.臨界例レベル
3.精神病レベル
である。

これに加えて健常者のカウンセリングと言った教育分析を加えると4段階あるのだが、
一般人への真の教育分析は日本では殆ど普及していないし、それにあたる資格さえないに等しい。
冗談のように聞こえるかもしれないが
今の日本で真の自己実現に達したいのなら
永平寺に入山し修業をすることに等しいかもしれない。

自己実現と言う用語は人間性心理学的アプローチと言うのが中心になるのだが、
教育界ではある程度認知されているものの、
本来の深層心理に絡むレベルではないことから、本人の認知や意識レベルに留まる。
分析心理学における教育分析とそれに伴う自己実現には
無意識から顕在化されるコンプレックスの解消と言う「死と再生」と表現すべきレベルの域に達する。
勿論、人間性心理学でマズローが言うところの自己実現と
分析心理学でユングが言うところのそれは同じではない。
敢えて人間性心理学で言う自己実現を分析心理学に当てはめるのなら
個性化と言ったほうが妥当である。

真の教育分析による自己実現を求めるのなら、
分析心理学の心理療法家の資格を持っている人に出会わなければ難しい。
と言っても、この資格を持つ人は日本で2桁止まりであるし、
分析心理学自体が、他の学派から科学的でないという批判もあり、
現状の臨床現場では遊戯療法・箱庭療法などの手法導入に留まり
真の自己実現を目指す教育分析としての普及には未だ程遠い。

話がそれたが
1.神経症レベルの問題であるのなら、
これは精神分析療法や認知行動療法を得意とする臨床心理士が
精神科医の薬学療法と連携し対応すべきものであるが、
精神科医は臨床心理士を同等のレベルとして扱ってはいない。
現状としては前述したように精神科医にとっての臨床心理士は
大半が心理検査(アセスメント)を役割とする人にすぎない。
法的にも心理療法は国家資格ではないから「治療」と言う表現を使うと違法行為になる。

2.臨界例レベルとなると、その見立てが難しく従来の心理療法で対応すべきか、
精神科医にコーディネイトすべきかを判断する局面になる。
しかし社会福祉士も現実は臨床心理士をスルーして精神科医へと
コーディネイトするのがほぼ現実である。

それでは3.精神病レベルになると精神科医だけでいいのか、と言う問題が残るが、
この判断が微妙である。
勿論、薬学療法の進歩は目覚ましいのであるが、
古くは治療ができないとされた精神分裂病も治療可能な事例が出てきて、
症状の名前も「統合失調症」に統一された。
しかし原因については複数の仮説段階にとどまっている。
また、最近一般に使われる用語として普及してきた鬱(うつ)については、
鬱病性障害と命名されるのであるが
鬱と対極にある躁状態が併発されることが多い事から
見立て次第では「双極性障害」と言う呼び名で呼ばれるようになった。
最近では薬学療法と共に認知行動療法が有効であることが判明されている。
ここに心理療法の役割の貢献と重要性が潜んでいる。

これらの命名はアメリカ精神医学会によるDSMという医学の基準書(精神障害の診断と統計マニュアル)により規定されている。
このマニュアルは随時更新されおり最新では2013年のDSM-5である。
勿論、臨床心理士もDSMの理解は必須である。
また、以前、「登校拒否」と言われた表現も、
学校へ行かないこと自体は精神的な障害とは確定できないことから
「不登校」と改名されている。

いずれにせよ現代社会の病理は精神医学だけでは対応不可能である。
また心理療法に通うことについての偏見を排除する社会認知活動も必要であろう。

【臨床心理士の必要性】

現時点での臨床心理士の3/4は女性である。
そしてその大半がスクールカウンセラーであり非常勤で就労にあたるケースも半数にのぼる。
最近では家族療法とかコミュニティ心理学とか、心の問題については、
それを抱えるクライアントと周りの環境を取り込んで行うべき方向へと進んでいるが
他の対人援助職との棲み分けや連携が未だ不明確である。

ましてや、少子高齢化を迎える時代に入り、
現時点で一番心の援助を必要としているのは、高齢者、労働者、父母と言った『大人』である。
これらの人に焦点を当てなければ、児童虐待、DV、パワハラ、コミュニティ崩壊、地方過疎化、
はたまた振込み詐欺などから派生するような社会問題と正面から向かい合う事にはつながらない。

臨床心理士は本来スクールカウンセラーになるためだけに創設された資格ではない。
スクールカウンセラーはそのものが臨床心理士である必要はない。
精神科医や大学教員経験者でも構わない。
余談になるが、カウンセリング心理学派である国分康孝氏は
スクールカウンセラーの採用が臨床心理士認定者に偏重していることもあり
臨床心理士資格制度そのものに反対している。
残念ながら統計調査を見る限りでも国分氏の指摘は現実である。

臨床心理士は、生涯教育や生涯発達心理学と言う言葉が登場してきたように、
あらゆる年代にとって対処できるように設立された認定資格である。
この認定資格を提唱し国家資格化を牽引していた河合隼雄氏が2008年に他界されたためか、
なかなかそこまでたどり着いていないのが現状であるが、
いずれこの資格は文科省認定ではなく厚労省認可の国家資格にならなければ、
保険制度の適用もできない訳で、
社会認知の広がりに伴う社会貢献への影響や改善には程遠いだろう。

【臨床心理士への道程】

これを促進するためにも、そのスタートラインとして、
自らが臨床心理士の資格を取得しなければならないのだが、
資格試験を受けるには2年間の臨床心理士指定大学大学院修士課程を経なければ
受験資格が得られない。
また大学院の卒業は3月であるが
臨床心理士認定試験が行われるのは筆記試験1次が10月で、面談2次試験は11月である。

大学院受験のために1年浪人生活をすることを考えても4年はかかるのだ。
 
また前述したように
資格を取得したからと言って、医者のようにすぐ食い扶持になるものではない。
自ら積極的に人脈を作る努力なしにできない仕事である。

また、自分が行いたい『悩み多き健常者の大人』へのカウンセリングや教育分析は目新しく、
勿論一般に普及もしていない。
これは産業カウンセラーの領域とも重複するが、
労働者限定ではないことからイコールではない。

試験の国家資格化への貢献も考えれば、
修士(前期博士課程)卒業後の後期博士課程(2~3年)に進学して研究職へ進めればとも思っている。
事実、予備校で相談してみたら、
私の場合は後期博士課程がある大学院への受験を推奨された。
しかし、そのためには自らの経済的事情を直視しなければならない事が悩みの種でもある。

自分のことながら果てしない目標を持った訳であるが、
扶養家族を持たなかったのも、
一つの会社に就社しなかったのも、
すべてはこの資格を目指していたからこそである。

「ふたつええこと、さてないもんよ」と言う言葉は、
河合隼雄氏が一般読者向けに書かれた心の処方箋に記されたものであるが、
最近はつくづくこの言葉が脳裏をよぎる。
また「自己実現は高くつく」と言う言葉は
同氏がユング心理学入門で書かれた言葉であるが、これも厳然たる事実であるようだ。
※前述の通り、ここで言う自己実現は分析心理学からの定義としてであり
 人間性心理学で言うところのものではない。

一見関係ないようにも思えるが、目指すところは社会政策に通ずる。
紛れもない少子高齢化社会と地方過疎、そして経済的格差は全て連動している。
勿論、政治的介入までも視野に入れなければ、問題の根本にも至らないものばかりだろう。
かと言って政策実現のために
今の日本で政治家になりたいなどと思うほど愚かでもないし
ましてやそんな人脈もない。

大切な事は実際に災害や社会問題に絡む犠牲になっている人達と関わり、
また、教育分析やコンサルティングなども通じて社会的発言権の高い人とも関わり
実社会に提言できるような立場になれれば
これ程生まれてきた甲斐があることはないと思っているのだ。
by jun_hara | 2014-11-08 23:21 | 独り言