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東京でのライブの事



このあたりで僕の東京生活での中核をなしてきた音楽活動についてまとめてみたいと思う。

【僕がライブハウスに出演するようになった訳】
僕が初めてライブ出演したのは35歳で、1998/10/8(木)の四谷コタン対バンライブだった。
この時は積極的にオーディションを受けた訳ではなく、
当時、新宿の日本初YAMAHAクラッセ・シンガーソングライターコースに通っていて
このコースを創設した五十嵐先生から「お前はここに来る必要はない。そのかわりライブハウスのオーディションを受けろ。受かるから。」と言う事で、
同じ教室の女の子が出演していたハコであるコタンのオーディションを受けたことから始まった。
この頃はギターとピアノの弾き語りと言えば東京で一番の老舗で、オーディションでは目がギラギラした応募者がいっぱいいた事を憶えている。
なんとかオーディションは合格となり月1で出演するようになり、今でも出演者の付き合いがあるのは、ほぼコタン繋がりだけである。
実は最初のブッキングライブでコタンに出演したのは、1998/10~1999/3の6回だけで、この後仕事の都合でライブ活動は休止していた。
特に後半は当時原子力情報資料室に勤めていたYAMAHAクラッセ仲間のF君とユニットを組んで反原発をメッセージにしていた。
また、1999/3にはロッヂゆうげん荘で行われていた軽井沢フォークライブに一度だけピアノの弾き語りで出演もしている。

【コタンから東京中のライブハウスへ】
それから2004年になって、軽井沢の由井さんの月1江古田マーキーライブに通うようになり、
その打ち上げで意気投合し、もう一度、軽井沢フォークライブに誘われて出演することになったのがライブ活動再開のきっかけになった。
ちょうどこの頃、YAMAHAミュージックセンター池袋でソングライティングコースに参加していたのと
表参道にある音楽専門学校AMVOXの作編曲音楽理論セミナーを受講しており、ライブはやっていなかったけど、音楽の勉強だけは続けていた。
清水ひろみ(清水さん)とれーみ☆に出会ったのが、YAMAHAミュージックセンター池袋ソングライティングコースである。
また僕がライブハウスで一番衝撃を受けた秋山羊子(羊子ちゃん)と出会ったのもちょうどこの頃である。
※YAMAHA関係の人の池袋のイベントに僕が出演し、たまたまそれを見に来ていた羊子ちゃんが、演奏後の僕に声をかけてきたことから縁続きになった。
それから羊子ちゃんが当時ホームにしていた池ノ上ボブテイルへ通うようになった。
※先代の店長である羽場さんが他界するまでは、オススメの出演者がある時にはメールを頂き、聴き手として足しげく通っていた。
 勿論全て当たり!の個性豊かなミュージシャンには多くの刺激を受けることが出来た。

話を戻すと、そんなこともあり、軽井沢フォークライブに再出演をしたのであるが、詳しくは書かないけど、殆どイベントの「てい」をなしていなかった。
そして、由井さんと税理士の遠山さんから「何とか前のように盛り上げたい。」という相談を受けて、5か年計画を練り、
プロデュースを引き受けたのが僕の本格的な音楽活動の再開となる。
兎に角、出演者とスタッフを集めないと話にならないので、YAMAHAの仲間に手伝ってもらったりしてスタッフを固め、
出演者をスカウトするために、2003年の山崎まさよしのシークレットライブから、当時一番出演が難しいと言われた四谷天窓に由井さんを出演させ、
僕はギターとピアノとコーラスのバッキングで参加するという戦略をとった。
これが大当たりし、第1回目では天窓のスタッフの方から「由井さん、全国ツアーでもやられているんですか?」と言われるくらいの盛況だった。
僕はバッキング大好きなので、これほど嬉しい言葉はなかった。
そのついでに僕もスカウトすることが目当てと言うか、若いミュージシャンと関わるのが楽しくなって2005/4/2(土)に初出演することになった。
その音源が今回のものである。(30:02)
天窓は女性の若いピアノ弾き語りができるハコとして四谷天窓comfortも併設して、
これも出演応募者が殺到するようになり天窓グループ音波は今に至るライブハウス経営の成功モデルとして続いている。
勿論、僕もcomfortの出演の常連になっていった。
当時、天窓はコタンから歩いて5分の場所にあり、コタンにも由井さんのバッキングとソロで再出演するようになり、
昼の部は天窓出演、夜の部はコタン出演という時もあったくらいに、ライブ出演が日常になっていた。
※同時にYAMAHAの仲間には、年1回の発表会として四谷天窓comfortやMiiya Cafeでもイベントを行って舞台慣れしていってもらった。
 勿論、由井さんと僕のユニット出演により、信頼できる交渉が出来るようにした後のことである。
※この頃、タティこと楯川明宏がコタンの店員兼出演者となり、よく話すようになっていた。
また当時、江東区木場に住んでいたので、銀座に近いことから、Miiya Cafeにも出演するようになり、
Miiya Cafe主催・日暮里・舎人ライナー開通の野外フェスではMiiya Cafeスタッフのyumiちゃんと二人で全体の司会進行などもやらせてもらった。
それとともに軽井沢フォークライブもスタッフと出演者も、こちらが選べる段階まで盛り上がるようになり、
2006年にはゲストとして海援隊の千葉和臣さんに出演して頂くほどになった。

【運命の年】
これが結果的には2008年に想像もしなかったサプライズとつながる。
要するに2007年のメインゲストとして手あたり次第出演交渉のメールを送ったところ、鈴木康博さん(やっさん)のマネージャーさんから僕の携帯に電話がかかってきて
「千葉さんが出演されているのなら、いかがわしいイベントではないだろうから、話を聴かせてほしい。」との打診があったのだ。
この話を由井さんに持ち掛け、当時のやっさんの事務所へ交渉のため足しげく通ったのだ。
交渉の結果、「とりあえず、プロモーションという形で出演しましょう。」と言う事になり、赤字を出さない形で交渉がまとまった。
しかし軽井沢は土日の二日間行われるので、土曜のトリをどうするかが問題となり、
当時コタン仲間であったオオタスセリ(スセリさん)に出演を依頼したことでイベントは大成功する。
※この時のスセリさんからは、プロとしてのイベントプロデュースの心得えを叩き込まれたことが、後の音楽活動のこやしになっている。
やっさんからは帰りの支度が出来るまでロビーでいろいろお話しをさせて頂き、帰り際には「また呼んでもらえるかな。」と言われ、
次年度の出演も確約して頂くことになった。
2008年には詳しい経緯は書かないけど、やっさんが土曜日の大トリ、やっさんのマネージャーさんの人脈で細坪基佳さん(坪さん)が日曜日の大トリで出演して頂けることになった。
それだけではなく、常連のあべあきらさん、それに僕の師匠である寺門一憲さん水岡のぶゆきさんのゴールデンペアにも日曜日に出演して頂き、
坪さんからはMCでイベントのレベルの高さを大絶賛して頂いた。
ある意味2008年は僕にとってターニングポイントだった。
軽井沢フォークライブはもともと地域活性化のイベントであり、当初は地元の若手が中心となって運営されてきたものである。
要するにこの時点でスタッフも地元から募れるようになり、僕の計画は完了していたのである。

【東京での音楽プロデュースのはじまり】
この頃、軽井沢の成功モデルを応用して、ライブハウス乱立状態で対バンライブの劣化が顕著になっていた東京で応用できないかと考えた。
つまり、普段トリやワンマンをやっているミュージシャンをブッキングして、イベントライブのプロデュースができないものか思案したのだ。
まずこの案について羊子ちゃんのマネージャである鈴木多加志(鈴木君)と新宿の喫茶店で交渉し賛同してもらい、次にタティとのりごんに話をしてブッキングすることになった。
何より心強かったのは清水さんが、ずっと軽井沢フォークライブのスタッフ兼出演者として陰ながら力を貸してくれたことが大きい。
実際、護国寺の清水家をたまり場にしだしたのもこの頃からである。
それと同時に僕自身はライブハウスでのスカウト活動のモチベーションもなくなり、ライブ出演はこの年に卒業していくことになる。
四谷天窓の卒業記事
あきゆみこ(ゆみこちゃん)と出会ったのもcomfortのこの頃で、ギターサポートをする約束をして練習のため、
 池袋YAMAHAのスタジオを無料で使わせもらったりもしたのだった。
※特にメジャーデビュー経験のあるYAMAHAミュージックセンター池袋でソングライティングコースの斎藤麻里子先生には、
 いつもイベントについての相談に乗ってもらっていた。
3年間に及ぶ
Tokyo Acoustic VOL.1 in Miiya Cafe
Tokyo Acoustic VOL.2 in 四谷天窓comfort
Tokyo Acoustic VOL.3 in 四谷コタン
を経て、清水さんから紹介されて出演していた御茶ノ水KAKADOにて僕のProfileに動画を掲載している「原っぱの傘兄弟」へとつながっていった。

【念願の自己実現】
一通り完成形を見届けた後、僕が一番大好きなレコーディングを本格的にやるため、
CDアルバム制作と全国発売を行うA.O.M.P.レーベル(Adult Oliented Music Project)を税務署に登録し事業を開始した。
と言っても、一生の記念に自分のCDアルバムを作るためのものである。
音源自体は溜めこんでいたので、後はサウンドエンジニアと流通業界とのつながりを探すことさせ出来れば予算上想定内に納まると試算でき
ここで鈴木君に相談したところスタジオ・レダ水谷勇紀さんを紹介してもらえ、ミックスダウンとマスタリングを承諾して頂けることになった。
また、実際にメインボーカル収録の際に水谷さんからレコ発ライブとして、
ボブテイルの羽場さんが「日本一のハコ。」と言っていたSTAR PINE'S CAFEに推薦して頂いたのだ。
そのオーディションではないけれど、2012/8/24(金)に南青山MANDARAに出演することになり、
一人では心細いのでMiiya Cafe仲間である青山シゲル(シゲルちゃん)にギターサポートを頼んで無事乗り切った。
同時に鈴木君からは信用できる流通業者としてブートロックも紹介してもらい、社長からは手とり足とり教えてもらいながら、
CD全国発売とiTunesの配信手続きを行っていった。
※一見、順風満帆のようであるが、この頃はかなりきつかった。
 と言うのもゴールデンウイーク後、父が末期の肺がんだと解り、同時に仕事でも大手損保会社の中核システムWeb化の開発を一人で仕切っていたからだった。
 そして父の意識があるうちに、父の写真でジャケットを作ったCDアルバムが間に合うことを納期として制作し、
 2012/8/31(金)の帰省で父の病室へ持って行くことができたのだった。
 そして、2012/9/8(土)父は他界した。

その後2012/10/28(日)、自身のレコ発ライブをやり遂げることが出来たのである。
この時にも、バンドメンバーやスタッフとして多くの仲間、そしてバンドの要となるベースとドラムを師匠経由で水岡さんにお弟子さんを紹介して頂き、
フルバンドの「てい」をなすことができ無事レコ発ライブをやり終えた。

【東京への恩返し】
僕がやりたかった音楽活動がほぼ終わってしまい、しばらくはライブとは距離を置くつもりでいた翌2013年。
2月だっただろうか。
ゆみこちゃんから7年ぶりの電話がかかってきて「CDを作ってほしい」と言う事になった。
とりわけ、ぶらり旅以外は差し迫った行事もないので引き受けて、
僕がやってきた手順通りを本人が憶えていく過程に伴走する形で編曲とプロデュースを行う事になった。
4曲とは言うものの、幼い子供を二人抱えて家族を切り盛りしている事情から、
家庭生活を犠牲にしないことを条件に出して、気長にやっていこうと言うことになり
1年がかりで、2014/3/16(日)あきゆみこレコ発ライブを本人の地元である埼玉県小手指で無事行うまでにこぎつけた。
しばらくして僕自身もマイペースでライブ活動を再開することに決めて、ぶらり旅の合間に、
オファーがくればライブをやってみようという気持になり2014/4/6(日)阿佐ヶ谷Next Sundayにてライブ活動再開をすることになった。
その後、ゆみこちゃんから、東京と実家のある横浜でもレコ発ライブをやりたいと言う事で、
2014/3/22(土)の昼の部に僕らが出逢った四谷天窓comfort、
そして2014/9/23(火)横浜CROSS STREETで、あきゆみこレコ発ライブは完結したのである。

この年の8月、僕が推薦した勤務先の同僚が自殺したことと、父の3回忌を挟んで、母が急性糖尿病のため3週間の検査入院をしたことから、
年内いっぱいで情報処理業界から足を洗い、実家へ戻る決意をした。
同時にその頃セラピストという本を読んでいて、初心に戻り、臨床心理士への道へ舵を切ることにしていたのだ。
意識では納得していたものの体は正直なもので、度重なる病魔は僕の体をむしばんでいき、
10月にはほとんど出社さえままならない状態になってしまった。
しかし担当していたシステムが僕なしでは完成しないことから、最後まで多くの人にお世話になり、
年内の引き継ぎまでたどり着けたのが引っ越しの前日だった。
今考えてもあの状態は仮面うつ病であり、あのまま東京生活を続けていたら生きていなかったかもしれないと思う。

東京最後の思い出として、これまでいつも僕に関わってくれた音楽仲間と東京最後のハコとなったNext Sundayへのお礼として
2014/12/28(日)に「”よりすぐりLive~最後の日曜日~” in 阿佐ヶ谷Next Sunday」を行う事にしたのは2015/10/12(日)の最後のソロライブの日である。
このイベントについても僕のProfileに動画を掲載しているので、ここで語ることもないだろう。

【縁は異なもの】
2015年は臨床心理士指定大学院受験のため全てを費やす覚悟で実家に戻ってきた。
しかし不思議なことが起きるものである。
2015/2/15(日)、25年ぶりに戻った故郷である明石の街をぶらついていたら、高校時代にたまり場にしていた喫茶店寺珈屋が目に入った。
店内に入ってみると、店長から「あんたもか。はいこれ。」と新聞の切り抜きを渡されて2015/2/26(木)に閉店することを知らされた。
僕は店内にあったギターを借りて時間を潰していたら、常連客(ボーカリスト)から、
2015/4/19(日)に神戸・三ノ宮の東極楽寺で行われるライブに誘われ出演することになった。
また、別の常連客から「閉店までにまた来てライブをやってほしい。CDもほしいから。」と言う事になり、
2015/2/17(火)が寺珈屋での僕のワンマンライブになったのである。
そして先週、中学時代から高校時代にかけて僕のライブやレコーディングのミキサーとベースをやってくれていた中野潤からfacebookで友達申請があり、
チャットで近況を報告しあっていると、まだ近所に住んでいることがわかった。
それと、たまたまfacebookでKTAKE(たけちゃん)と知り合いになり2015/3/14(土)1曲だけという条件でレコーディングを行った。
また、facebookを通じて、東京に居る時より近くに感じるコタン仲間との遣り取りなども含め、
本当に四半世紀も東京で暮らせることができて心から有難い気持ちが湧いている。

こうやって、僕の音楽人生は「想像もしない形で続いて行くものなのか」と思い、
これまで関わってくれた音楽仲間への感謝と総括を兼ねて書き綴ってみた。
これからは本来の目標を見失うことなく歩いて行ければと思いながら終わりの言葉とする。

ありがとうございました。


by jun_hara | 2015-03-15 04:09 | music

風土

facebookの僕の投稿より 2015.3.9 11:15

"東京であった3,11 
反原発デモに若い層がほとんど見当たらないとか
自分たちの未来の問題なのに、どうして声をあげないの?
日本は苛酷な「福島」を経験したのに何で安倍政権を選んだの?
ドイツの若者から指摘されて言葉がなかった
何とか、次の世代に繋いでいかねば・・"
という投稿があった。

しかし、若い人たちはデモへ行かないけど、原発を認めたわけではありません。
「デモをしなければならない。」という風土がこの国にないだけです。
デモに登場しないことや、マスコミに登場する若い人たちだけで、
今の若い人たちを判断すると誤解してしまいます。

僕は大学4回生の時に一時留学生の外国人を30分だけ梅田界隈の案内をしたことがあって
「日本人は何を神と信じているのか?」と聴かれた時
「それはこころ("soul" or "self")である。
意識(自我)が"ego"ならば自己は"self"であり、
これはユング心理学では"god"と解釈されているではないか。
西洋のように日本人は一元的に"god"を考えているのではなく、
無意識下でそれぞれが多次元的に感じているのだ。」
と答えました。
そしてデパートのショーウィンドウに飾られた祭りの衣装のマネキンを指さして
「これが日本のフェスティバルであり、神を祝う儀式だ。」
と答えました。

日本人は日本の風土から、基本的にこのような精神構造と文化を持っている。
勿論、これらの遺伝子は若い日本人にもあるわけです。
西欧の論理で説明するだけが日本人論ではないことに、
あちら側が気づくべきなのです。
これらを語れないのは、若い人たちではなく、
多くの日本史と日本文化を正しく学んでこなかった
大人の色眼鏡にすぎません。
「なんとかしなければ」と思う事自体が傲慢ではありませんか?
いまさらかもしれませんが、
私たちの世代が受験勉強で知った歴史は正しくないし、
特に西欧史に堪能な人に限って国史学をわかっていないことが多い。
ただ、東大や京大で頻出する現代国語では、
それらについて触れられている文章が出題されているのです。
代表的なものをあげれば
「風土」(和辻哲郎)、「人生論ノート」(三木清)などですが、
忘れていませんか?
これを思い出せずに日本人だからと言って、
外国人に日本人を説明できる訳がないのです。
要するに僕は、若い人たちも前意識では、感じていることだと信じています。
今はその過渡期にあるだけです。
実際、今年の1月に明石の喫茶店でライブをやった時、
「主権在民」の話を丁寧に説明したら理解してもらえました。
足りないのは何かおわかりなられたと信じます。

[PDF]和辻哲郎 : 風土(第一章)
http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q&esrc=s&source=web&cd=2&sqi=2&ved=0CCQQFjAB&url=http%3A%2F%2Fwww.kufs.ac.jp%2FFrench%2Fi_miyaza%2Fpublique%2Flitterature02%2Fwatsuji_fudo1.pdf&ei=AXj8VO75McTAmwX8pIFA&usg=AFQjCNHIyfB2yAj5DXN1Y5daaLrgFt1S1Q&sig2=WNkNaF4NtaYRG9X01FwksA&bvm=bv.87611401%2Cd.dGY


by jun_hara | 2015-03-09 11:31 | 独り言

私の西日本遷都論


【問題提起】
あと
4
日で東日本大震災から4年が経つ。あれから何が解決されただろうか。
東北3県は復旧どころか、福島第一も小出しにされる東京電力からの情報で、小出裕章先生が主張してきたような現実は、やっと社会的認知が始まったばかりである。
ただし、これは一部ネットの世界では周知のことであり、ここでいう社会とは、未だネットを情報ツールとして認識できていない多くの大人のことである。
これは私の親や周りの教職員をはじめとする「古いメディアから逃れられないガラパゴス状態の大多数の人達」を言っている。

東北3県においては、公務員の10人に1人が、自殺念慮を抱いたことがあると報道されている。(NHK News Web23)
大新聞やNHKの定時ニュースからしか情報を得られない人達は、

「地方からも応援で公務員や臨床心理士をはじめとする対人援助職の人達が訪れている」と言うが
それならなぜ状況は悪化するばかりなのだろうか。
実質、被災地に派遣された人達には「被災地でないところの生活圏」を持っており、出先へ行くのも、たかだか2年以内である。
復興に10年はかかるというのに、これでは「被災地に住むしかない人達は見捨てられた」も同じではないか。
もとから過疎化も原発汚染もなかった阪神淡路大震災をそのまま成功モデルにしても、東日本の復興などできないことは、もはや明らかなのだ。


政府がやる復興計画の殆どは少子高齢化と過疎化の土地に、土建屋だけが儲かる、被災者受け入れに対して無計画な復興住宅や盛り土を作るばかり。
原発被災地では、なんの根拠もなく多額の国費を使って、できもしない除染と言う偽善を続けてきた。

その結果、除染と言うまやかしの中から出てきた核のゴミを置く中間貯蔵施設さえ決まらない。

小出先生が述べられたように、はなっから除染なんてできないのだ。
それなのに小泉ジュニアや無知な有名人は「福島の子供たちを故郷に帰そう」と言う。
いったい、どんな場所へ帰すつもりなのか。
偽善や情に訴える報道に気づかず、これらのバカどもに感激している大人の気が知れない。
首都圏でもホットスポットは解決していないし、東日本の太平洋に面した海で取れる海産物は食べられたものではないのだ。

今の自民党・公明党と支持者・有権者は、もうすぐ、賞味期限が切れたことを思い知るだろう。
少なくともドイツをはじめとする西欧では、これに気づいており、報道がされている。
しかし、霞ヶ関と財界は首都圏にへばりついて、これまでの利権で食っていくつもりだろう。
その結果、多額の財政赤字を背負わされた未来の大人たちは、絶望的な環境にいることを知らされるだろう。

今でさえ格差拡大の異常さや、過疎に貧する地方の現状はオリンピックバブルにかき消されて、首都圏では能天気な「景気対策」を盲信して人口過密が続いている。
それでは首都圏の生活がそんなに地方に比べて「幸せ」なのだろうか。
一部の既得権益の恩恵にあずかる人達は「幸せ」だと言うかもしれない。
しかし、それは「今さえ良ければ」という前提をつけなければならない。
オリンピックが終われば(できればオリンピックなどなくなった方がいいが)、今建設ラッシュになっている、港区・江東区・台東区・墨田区などの高層マンションの資産価値は一斉に下落する。

それ以上に既存の不動産価値も下落するだろう。
今でさえ、世田谷区などの豪邸では、独居老人が多くなっており、郊外に建てられたニュータウンと言われる地域でも高齢化の歯止めがかからない。
それにも気づかず、多くのサラリーマンが、朝は狂ったような通勤ラッシュで神経をすり減らし、仕事以外には思考力が働かない状態で帰宅する。
そんな人達にネットのような主張を叫んで聴いてもらえるだろうか。

少なくとも昨年末の私には今を生きていくだけで精一杯で、どうでもいい話であった。

スイス在住の友人から聴いた話だと、スイスに住む外国人は、「通勤に1時間以上かかれば、転職する」と言うのが常識らしい。
考えてみれば、日本でも1964年の東京オリンピックが始まるまでは、今のような通勤ラッシュはありえなかった。
車社会がいいとは言わないが、関西圏をはじめ地方のサラリーマンには、首都圏のような生活は考えられないだろう。

私が初めて社会人を経験したP&Gは、神戸の六甲アイランドに高層ビルの本社がある。
私が勤めていた時は大阪の淀屋橋・高麗ビルが本社だった。
入社する前に当時の日本人トップであったY氏とこんな会話をしたことがある。
「P&Gはどうして東京に本社をつくらないのですか?」
「それは簡単だ。住環境が違う。
 それにアメリカから考えれば、東京・大阪間なんて飛行機ですぐの場所である。
 これだけでも本社を大阪にした理由にならないだろうか。」
これが多国籍企業の成功の秘訣である。

それでは、根本的に何がおかしいのだろうか。
そもそも、東京一極集中はそんなに古くない時代のことである。
今から四半世紀前のバブル期に、大阪に本社があった大企業(銀行、新聞社、大手メーカー、大手商社)は、とっとと大阪本社を閉鎖して東京へ行ってしまったのだ。
それまでは首都圏一極と言っても今のような状況ではなかった。
大阪の地盤沈下はこの時始まったのである。
しかし、安易に大阪遷都論に賛成しているわけではない。
弱者切り捨ての第2の東京を作る遷都構想など、誰の幸せにも、つながらないからだ。

【考察】

日本のこれまでの歴史を振り返ってもらえれば、おおよそ想像ができることだが
この国では、時代の変わり目は全て例外なく遷都が行われてきた。
中学時代に歴史をまともに学んだ人なら解るだろうが、時代の区切りは「都がどこにあったか」でなされている。
これはただの年表上の絵空事ではなく、日本において物理的に政治が腐敗した場合には首都の浄化が必然だったからだ。
それでは「都とは何か」になるが、これはいたって簡単な定義である。
「皇居があった場所」である。
江戸時代までは「御所」と呼ばれており、京都御所は1000年以上、天皇が住まわれていた場所なのである。
明治維新において、大久保利通は「列強に対峙することを考えても、大阪遷都すべし」と訴えた。
しかし大久保は、その主張を通すことができなかった。
では誰がそれに反対し、当時の江戸を東京にする主張をしたのであろうか。
これは未だ歴史的検証が行われていないのだろう。
それとも、私が無知であるのか、または一部の学者が隠しているのかもしれない。

少なくとも大学までの授業で教えてはいない。

いずれにせよここまで書いてきたように、東京が首都である必要は、既得権益をむさぼる人達や、それにすがって生きていくしかない人達の御都合で成り立っている。
事実、私自身も昨年末まで東京に25年間住んできた。
理由は至極簡単な話で「地方には仕事がないから」である。
今もその現状は変わらないが、ネットでいくら政権批判をしたり、反原発を叫んでも、何も変わらないことは周知のことだろうと思う。
結局のところそれらを叫ぶ人達は、首都圏や東日本に居る自身の親類については、これについて口を閉じてしまう。
しかし、それは歴史を体得せず近視眼的な生活に追われているのだから仕方がない。

私が主張する遷都論は「兎に角、皇居を原発汚染の危険性がない西日本へ移すべきである」に始まる。
霞ヶ関や永田町にへばりつきたい人達はそのままでいい。
やがて、皇居のない日本の首都がどうなるかは自明のことであるからだ。
京都ではカンファレンスが開かれ学識経験者がこの議論を始めている。
多数の人が知らないのは、マスメディアが報道しないことと、京都以外に立地する大学や大企業が反対するからである。

facebook
で友達になった一部の人達にはこれ以上説明不要かと思われる。
兎に角、原発問題、地方の過疎化問題、移民受け入れ、少子高齢化、TPP対策の第一次産業の普及など、これらの問題を解決に導くには「まず皇居移転あるべし」が中心にならないと、日本人は何をやっても総論賛成・各論反対になって根本的な改革などできる国民性ではないのだ。

ネットで反原発やマスコミ批判、政府批判を行う人にも、これらの提案を持って論じてもらいたいというのが私の本音でもある。


by jun_hara | 2015-03-07 21:10 | 独り言

私が実践すべき心理学とは

以下、硬い文章になるけど、今、論文の訓練中なので、仕方ないかなあ。
でも後半は息切れして、口語体になってしまうんやろうなあ。

【要旨】
今、私が直面している最重要課題は「臨床心理士指定大学院入試において英語は必須か?」と、「文部科学省認定資格の域を超えない臨床心理士と今後の心理職の国家資格化法案の行方はどうなるのか?」である。そして、私は「今後、どういったかたちで心理学を活かした職業を模索すべきであるか?」になる。
現時点で第1目標は「臨床心理士指定大学院合格」に変わりないが、この2ヶ月において考え続けた思いは「音楽を技法に持ち込んだ心理療法はできないものか。」であった。それは、いわゆる従来の音楽療法とは異なり、受動的な音楽の使用方法に止まらず、また、これまでの臨床心理におけるカウンセリングの「場」と「枠」にも止まらないやり方で、である。
これはミクロ的アプローチだと「クライアントの金言をセラピストが作編曲に応用し、コミュニケーションの道具として用いる。」であり、マクロ的アプローチだと「レコーディング、コンサートやライブを臨床に導入する。」となる。
いずれにせよ、目標を立てる場合、過去を深く考えなければならない。
これを前提に今後の進路について考察するため、備忘録として記しておく。

【問題】
まず、直近の最重要課題のこととして、この文のテーマが浮かんできたのであるが、これを整理するには、私がこれまで学んできた言葉を想記することが妥当と思われる。
とりわけ、今のところ受験生と言う身の上を考えた場合、20代の時の大学生活での学びから振り返ることが肝要かと思われる。

【関西学院の精神】
奇しくも高校時代、音楽ばかりやっていて、「大学」というものに対して、高校3年次の担任教師から「箸にも棒にも掛からぬ。」と言われた私が、1年間の浪人生活のゴールになったのが関西学院大学社会学部だったことは皮肉である。これはまったく意外で、志望校群の受験日程により、たまたま空いたので、ダメもとで受けてみたのだ。可笑しいことに学部は違うものの、前述の担任教師の後輩になってしまったのである。
本題に入ると、関西学院(以降、「関学」と記す)の精神は明確で「Mastery for Service」と「Noble Stubbornness」である。前者は「奉仕の精神」であり、後者は「品位ある不屈の精神」である。
関学はプロテスタント系のミッションスクールであるし、創始者がアメリカ人のランバスであったため、学院内のあちこちにこれらの英語が書かれている。
当時の関学・社会学部では1回生では1年間の基礎ゼミというものがあって、入学時にパンフレットと共に志望基礎ゼミを提出する用紙が配られた。私の志望基礎ゼミは社会心理学の「田中國夫ゼミ」にしたのだが、もののみごとに入ることはできず、学校側は何を間違えたのか「宗教改革と二重予定説」のゼミにまわされた。キリスト教にはまったく疎い私が、カルヴァン派の神父でもある春名教授に教えを請うことになったのである。授業では「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(マックス・ヴェーバー著)が最重要書籍になり、正直、「何が何やらわかりませんわ。」状態の日々が続いた。
ただ一つハッキリ憶えているのは「1日に働ける時間を怠ったら、2日分の時間とお金を失うことになる」といった内容で、今でも私の戒めになっている。
基礎ゼミで苦汁をなめるような思いをしたこともあって、3回生からのゼミは「絶対、第1志望のゼミに入ってみせる。」と思い、2回生の頭から聴講生として「田中國夫ゼミ」の3回生の発表時間に全て出席した。ここでは発表後に感想を書かされる。私以外の聴講生は恐らく「賞賛」しか書かなかっただろうと思われる。しかし、ここがひねくれ者の発想で、「思った事を正直に書けば、ええやん。」という態度で、解りにくい説明は「解りにくい」、みごとな連携の説明には、そのままの感想を書いた。
3回生からは、晴れて第1志望のゼミに入れることになったのだが、ここでのゼミ生活を全て書いていたら1冊の本になるようなボリュームなので、本論にもどり、今、思いつく田中先生の言葉だけ記しておく。
「男ならやってみろ」
「人生は演技である」
「大胆かつ繊細に行動しなさい」
「ここは魂と魂のぶつかり合いの場や」

2回生3月に振り分けられる班(私の場合は男子3名、女子2名)による研究書籍「コンプレックス」(河合隼雄・著)は今でも私の心理学に対する中心概念になっているが、この書籍もここで書くには難しすぎるので、河合先生の別の書籍「心の処方箋」から一つだけ呪文にしている言葉を記しておく。
「ふたつええこと、さてないもんよ。」

それと、このゼミにおいての最大の出会いは「こまやん」である。「こまやん」の言葉からも3つだけ記しておく。
「先のことはわかりません。そやから面白いんですわ。」
「原さん。最悪の事態を想定して動かなあきませんよ。」
「今の私は周りの人があってのことです。それだけは言えます。」

【母からの教え】
私の最大の教育者は、おおよその人がそうであるように、紛れもなく母である。
幸か不幸か、私の母の職業自体が教育者であったし、対人援助職も経験しており、今のところ、図らずも同じ対人援助職を目指すことになっていることも、この人の元で育てられたことが私の人生の進路に対して大きな要因になっているからである。また母を仲介に出会った人達の言葉も混じっているが、私にとって心に残る言葉は「誰が言ったか?」が重要ではないので、想記するままに羅列する。
また、以下の言葉は、決して命令として言われたものではなく、主体的に教訓としていることとして、私自身が腑に落ちていなければ書けないもののみ記している。

「感謝しいや。」
「なるようになる。」
「過去を深く考え、現在をよく行い、将来によりよく生きなあかんで。」
「人格の完成につとめ、模範的進取的でありよ。」
「独断専行を慎み、衆議を重んじ共に努力しなあかん。」
「人間性を重視し、人種男女の差別を廃し、礼節を尊び、「一視同仁」と言う言葉を忘れたらあかんで。」
「いつも本元を考え、目的を立て、道をあやまららへんように。」
「心と身をもって社会貢献をめざしや。」
「社会の教化福祉こそが同行であって奉仕なんやで。」
「努々、自己の生命(いのち)を軽んじたらあかんで。親より先に死ぬほど親不孝はないで。」
「ひたすら身命の力を尽くして、諸悪を避けて善を択び、独(ひとり)を、慎み身を修め、誠の道に精進して、個性を活かし、これを伸ばし、行じに行じて世に合わせながら、自他共々に生き行く道と心得えや。」
「人生は、文化の創造、人格完成、社会教化の道程(みちのり)や。それが万人普益、世界平和の大きな和に繋がるんやで。これこそ、社会に順応するものと心得や。」

以上を持って来週から、心理英語の勉学に入ることを覚悟するものとする。

平成27年3月4日 水曜日
by jun_hara | 2015-03-04 18:21 | 独り言