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コラージュ療法

e0027033_17184076.jpg表現療法としてのコラージュ療法は、雑誌や広告などから写真や絵などを切抜き、台紙に貼って一つの作品を作るという、極めて簡単な方法で自己の内面を自ら振り返るという自己表現が可能となるので、不安や問題点を作品を通して理解することだけではなくて、自らが癒される効果(カタルシス効果)がある。
ストレスの発散、満足感、達成感を得られることだけではなく、言葉にできることは、意識をしたり自分で気づくことができるが、無意識的な自己に気づくことで人と信頼関係を構築するのにも役立つ。

表現療法のひとつに箱庭療法がある。
これは、内側が縦57cm・横72cm・高さ7cmの青い箱の中に砂で自由な空間を創作し、その上に棚に並べられたフィギアの玩具を選んで置いていくといったものである。
この技法はスイスの分析家ドラ・マリア・カルフによって開発されたもので、言語的な表現が苦手である日本人にも有効であるという観点から、河合隼雄が日本に紹介し全国的に広がった経緯がある。
具体的には、心理相談室などに箱庭専用の部屋があり、場と枠に守られた空間において、クライアントが自由にイメージを表出することで、言葉にならない自己像や意識化されていない感情を表現することに意味があるとする心理療法である。
セラピストはクライアントが表現するものを逐一解釈・分析するのではく、その表現活動に寄り添い完成されるのを待つことに留め、クライアントの心に対し共感的に受容することに主眼が置かれる。

箱庭療法が来所型の心理療法であるのに対し、アウトリーチの重要性が言われる中、「持ち運べる箱庭」として提唱されたのがコラージュ療法である。
この療法は主にコラージュ・ボックス方式とマガジン・ピクチャー・コラージュ方式に大別され、詳細は以下の通りである。


・コラージュ・ボックス方式
クライアントのためにセラピストが雑誌、パンフレットから絵や写真、文字などの面白そうな材料を集めて、切り抜き、それを30~50ピースにまとめて箱の中に入れて置く。その中からクライアントは、切り抜かれた紙片を選び出し台紙の上に自由にレイアウトし、貼付ける。
〈長所〉あらかじめ危険なイメージなどを除いて、相手に合わせて内容を調整できる。年代、性別に合わせて、複数の箱を用意することや、箱に入れての持ち運び可能がであるし、制作時間の短縮にもつながる。クライアントは、自分自身で切り抜くよりもまとめることが容易になる。
〈短所〉集団的使用に難点。セラピスト側の想像力による制限がある。セラピスト側にあらかじめ切り抜く手間がかかる。
・マガジン・ピクチャー・コラージュ方式
雑誌、パンフレットから絵や写真などの材料を用意し、クライアントはそれを自ら切り抜きる。雑誌などをセラピスト側が用意する場合と、クライアント自身が自ら持参する場合がある。
〈長所〉集団的使用に適する。クライアント自身の身近な材料を選ぶことができ、セラピストの予想を超える表現が生まれる可能性がある。
〈短所〉切り抜き内容が相手まかせであるために、クライアントの想像力による制限がある。制作に時間がかかる。

とりわけ、コラージュ療法は重度の身体障害者など、自らの身体を使って表現できない人達に対しても、セラピストが出来うる限りの準備をすることで表現の補助をすることが可能であり、技法の活用範囲が広いと言える。
by jun_hara | 2015-07-31 17:18 | 情報

アクセプタンス&コミットメント・セラピー(ACT)

e0027033_2250161.jpg認知行動療法(Cognitive behavioral therapy、以下CBT)の第3勢力として行動療法的認知行動療法であるACTが注目されている。
基本的にCBTが伝統的な心理療法と違うのは、不適応などを発症させている初期原因に遡るのではなく、不適応を持続させている原因(持続原因)に焦点をあてている事が最大の違いである。
これは不適応な認知や行動についてその原因を「分離-個体化の乳幼児期」、「エディプス期」などの発達論的な観点から探ることよりも、どうすればその不適応という現象が消去でき、適応的な認知や行動を学習できるかに集中することを意味する。
要するに「初期条件(または原因)がわかれば治療できるのではなく、持続条件(または原因)がわかれば治療できる」とする所以である。

CBTは一つの治療法ではなく、起源が異なる暴露法などの行動療法(第1勢力)と認知再構成法に代表される認知療法(第2勢力)の統合的療法の総称であり、一般的にCBTと言う場合、認知療法を指していることが多い。
ただ現場においては、こういった厳密な区分を設けず、ランダム化比較試験などの効果研究に基づき、仮説検証型のケース・フォーミュレーションを行い、「あるものは何でも使う」といった態度もCBT的であると言える。

CBTの名のもと、さまざまな新しい臨床技法が登場してきたが、ここにきて一番注目されているのがACTである。
第3勢力として押さえておくべき概念が「アクセプタンス」、「コミットメント」、「マインドフルネス」である。

「アクセプタンス」とは、与えられているもの(感情、思考、症状、身体感覚など)、「今、ここ」で経験しているものを、判断を介さず受け取ること。
「コミットメント」とは、具体的なホームワークや行動的エクササイズを使って、「価値」に沿った(障害からの回復に)効果のある行動をすること。
「マインドフルネス」の状態とは、ある特定の仕方で注意を払うこと、つまり、目的にそって、当該時点において、無評価的に注意を払うこと。

アクセプタンスを行うためには、当然、注意を向け続けること、判断を避ける(あるいは素早くそれを解き放つ)こと、さらに覚醒の程度に気を配ることなどに対して、マインドフルネスに関わる必要がある。
これらは非常に東洋的な概念であるが、それ故日本人に馴染みやすいものだと思う。

ここで重要なのは、マインドフルネスが中心概念になっているが、この前に必ずアクセプタンスが裏打ちされていなければならないことである。
アクセプタンスを忘れて、マインドフルネスはない。日本の精神、文化、芸術には、アクセプタンスが流れている。大きなものの愛情、慈悲に包まれている=受容されている、根底に包むものがある、これが日本人の精神の根底にある。受容されないと、落ち着いて、マインドフルネスできない。これからは、マインドフルネス心理療法、マインドフルネス心理学ではなく、アクセプタンス心理療法、アクプタンス心理学を強調していくことが大切であるように思う。
日本では、特にそうである。
こどもがクラスメートをいじめるのは、ささいな不愉快さを受容できず、存在全体を受容しないのである。この同じような状況が虐待、暴力と見捨てられ不安、社会におけるぎすぎすした人間関係、うつ病に追い込まれる働く人、高齢者への虐待、・・・。国と国の争いも。アクセプタンスがないのである。親が子を受容しない、子が親を受容しない、夫婦が互いを受容しない、職場で同僚、部下を受容しない、非正規社員を受容しない、医療・福祉の現場で相手を受容しない。アクセプタンスの底の底も、西洋と日本とでは違うようである。
日本人は、どんなに悪い自分でも見捨てられない、無条件で、絶対的に受容されているという安心を求めてきた人種のようである。東洋のうちでも条件つきの受容があって、日本は特に無条件の受容心を発見したのである。人が生きていくうえで、自分がアクセプタンスされていてこそ、相手にやさしくなれるのである。相手の不十分なことを受容して、対決しない行動を求めていけるのである。
相手の底にも人格を見るからだ。
ささいなことで怒り、比べようもないほどの命をうばうこと、自殺に追い込むことをしない。
アクセプタンスがないマインドフルネスは破綻すると思われる。

ことほど左様に、日本人特有の魂のようなものがあるとするならば、こういった価値観と歴史が根底にあると思われるのだが、これはあくまでも論理的仮説にすぎず、初期条件(または原因)を求めないCBT的思考法からすれば不要かも知れない。
by jun_hara | 2015-07-21 22:28

決して彼等のようではなく

作詞:小田 和正、作曲:小田 和正

時は誰れかを 道連れにして
幾つかの時代を 終えてきた
そのたび君は ことば捜して
時代の後から ついて来ただけ
心は 何処にある
心は 心は
心は 何処にある
心は 心は

なにを見ても なにをしても
僕は 僕の ことばでする
やりたいことも やるべきことも
今 ぼくの中で ひとつになる
ためらう ことはない
このまま 走るよ
あなたの為にうたう
すてきなことだろう
心は 何処にある
心は 心は
君とは いつまでも
心は 通わない
君とは いつまでも
心は 通わないだろう
今こそ 焦らないで
今まだ 語るな
今なら まだ戻れる
今なら 間に合う
by jun_hara | 2015-07-19 00:07 | music

「『心理臨床』という専門性の共有を考える」より

日本の臨床心理(もしくは心理臨床)をとりまく環境はドラスティックに変貌をし続けている。
元々、心理学(学術的心理学)も臨床心理学も西欧からの輸入学問を発祥としているため、文化差を念頭に置いた人間観を一義的に変換できないといったジレンマが存在するが、それでも社会的病理であれ、個人の社会不適応への介入であれ、臨床の必要性だけは増加する一方であることには誰もが異論なきことだと思われる。
その中心的役割を果たしてきた日本の臨床心理士資格について、この数年で大きな転換点に立っている。
1995年の阪神大震災と2011年の東日本大震災を持って、臨床心理士の社会的存在理由は周知されたかのようであるが、この資格が国家資格ではないことを知っている人は少ないのではないだろうか。
裏を返せば、心理療法は社会保険料適用外であり、臨床心理士にはその報酬や保証も存在しない資格なのである。
一方、あらゆる領域(教育、医療、産業、司法、福祉)において必要不可欠でありながら、その活動範囲が広くて深くなりすぎている問題から、専門性と総合性のバランスにおいてアイデンティティが確固たるものでないことも内在している資格であり、この資格で食べていくには、あまりにも経済的基盤が不確かな職種にしか開かれていない現実がある。
これを裏付ける事も含め、以下の文面を引用する。

心理療法の現在に関する検証一臨床と研究の即応的関係の構築一

大山氏は、近年の心理士を取り巻く状況は、個々の心理土に心理臨床のコアが問われる状況にあると言います。心理土の若年層が増えている現況は、心理士の専門性の継承を難しくしています。また、複数の領域にまたがって勤務する心理土の増加や、領域の細分化によって求められる専門性も細分化されることで、心理土としてのアイデンティティが揺らぎやすい状況もあります。大山氏は、このような背景が心理土間で心理臨床のコアを共有しにくい状況をもたらしていると指摘します。また、大山氏はご自身のドイツでの経験から、言葉や国を超えた普遍的な心理臨床のコア成るものが存在する可能性や、その一方で日本の心理臨床の考え方に精神分析的なアプローチと森田療法的なアプローチの両方が存在する特殊性の可能性について話題提供がありました。また、心理臨床のコアなるものを明確に語ることは難しい作業であるとはいえ、心理臨床のコアの周辺を語り、それを積み重ねていくことで少しずつ明確化されるのではないかとの指摘がありました。大山氏の研究成果や内外の研究成果を踏まえて、心理臨床のコアに関わるものとして、多様な可能性や解釈に開かれた態度、見立てを絶えず修正しながら関わる態度、面接者とクライエント間での身体共鳴の成立、フォローアップ発話中心の関わり等を挙げられました。これらを踏まえて、全てのよい心理療法の基底にはやはりクライエント中心療法の要素が含まれていることと、面接の場で生じていることを把握しつつもそれ以外の可能性に開かれている態度、そしてまだ言葉になる前の自分の微細な心の動きに開かれている態度が、心理臨床のコアを構成するいくつかの側面ではないかという指摘がありました。

by jun_hara | 2015-07-07 21:55