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知能のパラドックス

e0027033_17543571.jpg知能のパラドックス 単行本 – 2015/7/24 を読み終えた。

おおよその内容は進化心理学の視点から「知能」の正体を解き明かすとしている。そして「知能」は人間の進化の過程では新しい概念であり、本来人間に備わっていた「本性」としての要素ではないとする。また、「知能」=「人間の究極の価値」では決してなく、身長や体重のようなひとつの特徴に過ぎないことを前提に話を進めていく。
確かに「オカマの人って、なんとなく頭の回転がはやくない?」「できるビジネスマンって、どうしてジムに通うの?」「一流の人って、なぜかみんなクラシック音楽が好きだよね」「マスコミって、どうして保守政権を目の敵にするの?」など、興味深いテーマで展開される話なのだが、正直、統計的検定を鵜呑みにできないところや、考察に論理の飛躍がある点は否めない。

それでも正しいかは別にして面白い箇所を引用してみると

「保守主義者より自由主義者のほうが知能が高いのはなぜか?」より
チャールトンの説によれば、一般知能を除く、進化により形成された心理メカニズム(つまり人間の本性)の総体が、いわゆる「常識」というものの正体だ。常識は誰にでも備わっている。しかし知能の高い人は、その知能の高さからくる分析的・論理的思考力を、間違ってはたらかせ、進化の観点から見てごく当たり前の問題でも、分析的・論理的に考えてしまう傾向があり、その結果、失敗をやらかす。
要するに、リベラル派をはじめとする知能の高い人には、常識が欠けている。常識にしたがおうとしても高い知能がじゃまをするのだ。彼らは「感じれば」よい場面でも「考えて」しまう。対人関係のような日常の場面ではたいてい、考えるよりも感じることのほうが大切だ。

とか
よく指摘されるように、学問の世界ではすでにこういう状況が起きている。たとえば、文芸評論のように、ある見解が正しいかどうかに関して外部の客観的な評価基準がない分野(どんな理論も事実で検証しなければならない自然科学とは大違いだ)や、社会学のような非科学的な分野(何が真実かをめぐって一向に意見がまとまらず、実証的なデータより政治思想のほうが優先される)。そうした世界では、「読者反応論」や「社会構築主義」のような複雑怪奇な理論を唱える学者がたたえられる風潮がある。

だろうか。

個人的には「音楽の起源は歌。楽器で演奏する音楽は新しい」より
私の感覚で言うと、西洋のクラシック音楽は世界中の他の伝統音楽と同様、「進化の歴史における音楽的表現とは」性質が違うようだ。そもそもクラシックをやるには、普通の人にはマスターできない、つらい修行を積まなければならない。バッハやシェーンベルクの作品に見られるようなメロディーやハーモニー、リズムが自然に理解できるようになるわけではない(自分で創作するのはもっと難しい)。この種の音楽は母語の習得とはまったく違うのだ。

はある程度納得がいく。

とりあえず、学術書としてではなく興味本位で読む分には面白いのかもしれない。
by jun_hara | 2016-02-29 18:11

僕が臨床心理士指定大学院へ進むことにした理由


2014年の夏だった。
東京に住んでいる頃、たまたま本屋で見つけたのが最相葉月・著セラピストだった。
最相さんは僕と同い年で母校も同じ関西学院大学である。ただ、僕は社会学部だが最相さんは法学部なので、どうして臨床心理学に興味を持ったのかはわからない。
いや、その理由は本の中に書かれてあったっけ。
それは兎も角、この本を読めば、日本における臨床心理学のこれまでが物語として一望できる。正確には心理臨床だろうか。
その風景の中には、僕の母校である明石南高等学校の同窓会館までもが登場する。
実は、日本の臨床心理学の普及は近畿一円から始まったのだ。
僕の学生時代に臨床心理学を学ぶには、京大か九大くらいしかなかった。
それは1960年代の闘争で日本の臨床心理学が歴史の中から消えた時期があったからだった。※このあたりの詳しい経緯はこれからの臨床心理学にて。
再び、日本の臨床心理学が芽を出したのは、河合隼雄先生がスイスから帰国して京大で教鞭をとり、九大では成瀬圭吾先生が臨床動作法をもって、研究を始めた頃である。

関学は古くから文学部心理学科や社会学部社会心理学専攻はあったが、臨床心理学は未だに学科も存在しない。関関同立でも臨床心理士指定大学院でないのは関学だけであるが、これは関学が伝統的に学術心理学の歴史を背負ってきたからでもある。
そもそも一般に心理学と呼ぶ場合、正確には学術心理学と言って、原点が実験心理学になり、カウンセリングや心理療法などを含む学派ではないからだ。一番解りやすい例をあげれば、学術心理学では「無意識」という概念は取り扱わない。この概念は臨床心理学でもフロイトから始まる精神医学の精神分析学派でのみ用いられるだけである。これは「無意識」という概念が科学では実証しようがないからである。

僕は学生時代、社会心理学を専攻したのであるが、最初に課題図書になったのがコンプレックス性格チームワークの心理学だった。
僕の発表チームにはコンプレックスが割り当てられ、1か月間、フロイトからユングまで徹底的に研究することを義務付けられた。
そのせいですっかり臨床心理学に傾倒してしまい、3回生になってから専攻の社会心理学研究が始まっても、時間があれば本屋で臨床心理学関連の本を買いあさって読んでいた。
ここまでハマったのは、2回生の後半、不登校の中学3年生の家庭教師をやっていて、登校できない理由の解釈ができていなかったが、この本「コンプレックス」自体に腑に落ちるカラクリが書かれていたからだった。ここで説明するには難しすぎるので、是非読んで頂きたいし、臨床心理士になって、この本を読んでいない人はモグリと言われるくらいだから、書くのも野暮と言うものだろう。
また、他の課題図書の著者も全て心理カウンセラーや心理療法家であり、これらの本や恩師の本が原点となって、後に僕が世の中を見る際のフィルターになっていった。

4回生になって、就職活動期に行われた「自分が一番影響を受けた本」の発表も心理療法論考を選んだ。さすがにこの時期になっても、学術心理学ではなく臨床心理学から選んだので、あまりいい顔をされなかったことを憶えている。しかし、この時も「いつか臨床心理士資格が出来たなら、その時考えよう」と本気で思っていたのだ。※当時、資格名も存在していなかったが。
それから長い年月が経って、2007年に河合先生が他界された頃、僕は東京九段にある日本・精神技術研究所心理臨床学会の重鎮のH.M.先生に依頼して、初めて教育分析を半年間経験させて頂いた。この時は、ある事例のスーパービジョンも兼ねていたので、かなりの勉強をさせて頂いた。そしてその最後の日、「本気で今でも臨床心理士になりたいのなら挑戦した方がいい」と勧められたが、大学院での心理英語に対する覚悟がどうしてもできないことから、日常に追われて東京での生活が過ぎていった。

2014年は人生の分岐点となった。
セラピストを読み終えるのと同じ頃、職場の同僚が首つり自殺をしたのである。
詳細は書かないが、この時、組織で働いていくモチベーションが尽きてしまったのと同時に、臨床心理学の方向へと切り替えることに決めたのだ。当初は東京で予備校に通い、東京の大学院を考えていたが、父の3回忌前後に母が3週間の検査入院をしたことから、実家に戻ることとなった。その年いっぱいは技術職の仕事が残っていたので、年内いっぱいまで務めることとし、年末に最後のイベントライブをやった次の日に帰省した。

実際に受験勉強を開始できたのは2015年になってからである。そもそも技術職をやりながら他の勉強時間を確保するのは不可能だった。
本格的に学び始めてわかったのは、臨床心理学の世界が様変わりしていたことだった。臨床心理学だけではない。学術心理学においても認知心理学や認知神経科学の台頭により、聞いたこともない心理学者の人名や概念が登場し、僕が学部生時代に憶えた精神分析学派はすっかり主役から遠ざかっていた。かわりに認知行動療法(CBT)が精神医学を巻き込んで、精神療法の中心になっているのである。また、東大をはじめとする首都圏と京大を中心に置く関西圏では幾分事情が異なっていた。前者がCBTを中心としたEBMであるのに対し、後者は事例研究法を中心としたNBMである。それに加えて、心理職の国家資格化法案が9月に国会を通過し、決定的に臨床心理士資格は国家資格にならず、新たに公認心理師が国家資格になった。※移行措置等の話はまたの機会に記す。
9月受験間近の6月の話であるが、いったいいつから何が変わり始めたのかを知らなくては、受験自体が無駄になりかねないので、本を買いあさったり、ネットで調べ上げ年表を作って俯瞰してみたら、その大きな変化の始まりが2007年であることがわかった。前述の河合先生他界直後からである。今でもその大変動の途中なので、詳しくは書けないが、教育界に属する臨床心理学と医学界に属する精神医学が離合集散しつつあることだけは理解できた。

結局、9月の受験は準備不足で不合格になったが、おかげで受験校の選定を切り替え、11月受験で第1志望の兵庫教育大学大学院に無事合格することができた。しかし、本当に大切なのはこれからである。受験前までは、大学院にさえ入学してしまえばと思っていたが、今は決してそんなことを思えるわけがない。学部生の頃を考えても同じことを言えるが、勉強にしても研究にしても、入ってから何を学び続けるのかを具体的に目標として持ち続けていなければ何の意味もない。これから行うのは実践に役立つための研究と実習である。
学部生時代に学んだ社会心理学による心理学研究法は、ICTも絡めて今でも大切な僕の技能になっている。また、これまでの人生で何度か関わった事例や経験を肥やしにしないと、今までやってきたことの意味がない。少なくとも教育大学大学院を選んだからには教育に関わる分野は外せない。現状の社会の歪みに対して働きかけていく場合、結局は教育に立ち返ってしまうからである。
とにもかくにも臨床心理学は時代時代の社会的弱者をきめ細かく擁護してきた学問である。この原点から離れての具体的な目標はない。
いったい何時になったら、未だ誰にも言葉にしていない到達点に至るかはわからないが、決めた道に後悔のないよう毎日を積み重ねていきたいものだ。
by jun_hara | 2016-02-23 23:56 | 独り言

二つの記事から

ここのところ気になっている記事は下記のふたつである。
一つ目は豊かな「個性」としての発達障害〜多かれ少なかれ誰もがもっているであり、
二つ目はオックスフォード大学が認定 あと10年で「消える職業」「なくなる仕事」702業種を徹底調査してわかったであるが、
これらに何の関係があるか、直感的に気づく人はどれくらいいるだろうか。
結論から書けば「今後の教育システムをどう変革すればよいのか」になる。

以前、個性化と社会化について書いたが、現在の日本の学校教育は社会化に重点が置かれている。
また、「出来る子=知能の高い子」の図式でとらえられることが多いが、知能とは、ことほど左様に単純なものではない。
近代心理学の最大の発明として知能検査があげあられるが、逆説的に「知能」という構成概念ほど一律に定義されていないものもないのだ。

また、近代学校教育においては大学受験というものが最後の関門となるが、ここで問われるものは圧倒的に詰め込み教育の残骸が多いのも事実である。
これは、論理的思考を行う場合、多くの概念を有機的に結び付けるという観点からすれば、一概に批判されるべきことではない。
しかし、この数年間におけるInformation and communications technology (以下、ICT)の発展と普及からすれば、従来の記憶力に頼った知能の評価は難しくなっているのではないだろうか。
その代表的なものがマネー資本主義の限界とも言える投機筋による株価の乱高下であろう。
今や、株の売り買いは人の即時の意思決定ではなく、ICTを通じてプログラムが行っているのである。

基礎心理学では記憶の仕組みを2種類の3過程で説明する。
一つは、記名→保持→想起であり、もう一つは、符号化→貯蔵→検索である。
この表現の最大の違いは前者がヒトとしての記憶を前提としており、後者が認知機能を持つ個体であることを前提にしている。
要するに後者は人間と情報処理機器を同じ概念でとらえる認知科学の見方と言う事も出来る。
一見、ヒューマニティに欠ける解釈ではあるが、ICTの現状を考え、今後、人間の記憶に関する能力を評価する場合、後者の方が妥当である場面が否応なしに出てくる。
例えば、人間が意思決定をする場合、デバイスを使わずに行う事は殆どなく、我々がGoogleなどを使いこなすように、その過程にはどうしても「デバイスによる検索」といったものが介在する。
つまり検索キーワードの記憶は必須であるが、従来の、記名(符号化)→保持(貯蔵)といった過程は、絶対ではなくなってくる。
また人工知能における深層学習技術の発展により、機械自体がビッグデータを利用して試行錯誤し、人間の精度を越える意思決定を行う場面が急速に登場しようとしており、そのインパクトの一番大きいものとして、無人カーがあげられるだろう。

先の記事で興味深いもう1点として、生き残る職業の中に「小学校の教諭」はあるが、「高等教育の教諭」が含まれていないことだ。
要するに、ピアジェの言う形式的操作期の段階から始まる教養としての教育ならば、十パひとからげに教室に詰め込んで教える必要はないのであろう。
実際にeラーニングは普及しだしているし、ICT遠隔教育も本格的な実験段階に入っている。無理に教室に押し込めて、いじめや不登校を問題にするくらいなら、学校を含むコミュニティの方が個人に対して柔軟に対応していかなければ難しい時代がきているとも思われる。

こんな話を書けば、必ず「社会性が育たなくなる」といった意見が出てきそうだが、それなら今後生き残っていく上で必要な社会性とは何かを明確に示せる人はどれくらいいるだろうか。
極端な話、情報の加速化が止まらないとしても、子どもの発達に準じたモチベーションの維持において、「どうしてそんなことをしなくちゃならないの?」に大人が答えて、子どもが腑に落ちれば、内発的動機づけは高まり、他者との関わりの重要性に気づくものである。
むしろ、このような子どもの疑問に答えられないようでは社会性の重要性を教授できないだろう。
ここにおいても、今後必要となってくる、従来の社会性との違いは何かを考える必要がある。
要するに組織や地理的条件に縛られない今後のコミュニティのあり方を問い直すべきなのである。

基本的に人間は「ところ変われば品変わる」もので、西欧においては言語的コミュニケーションによって、その違いを確認する文化が成り立っている。
一方、日本においては以心伝心とか、腹芸とか、暗黙の了解があちらこちらに張り巡らされている土壌をもった民族であるため、とりわけ個性よりも社会性に偏重しやすいと思われる。
しかし、グローバル化を持ち出さなくとも、例えば、若者のLINEによる文字コミュニケーションをとらえても、言語化というものが不可欠になってくるに違いない。
ただ、ここで重要な「暗黙の了解」といった問題が残されている。
以下はその研究の土台にしようとしている自らの覚書である。

■ 非正規雇用者のモチベーションに影響する要因について
システムが整っていて役割が明文化されている職場だと非正規雇用者は比較的居心地がよい。
ところが、あちこちに暗黙のルールが仕込まれている職場は途端に居心地が悪くなる。
これは終身雇用の弊害が残っている会社であれば全ての非正規雇用者に当てはまる。
情報処理業界であれば、
・開発の標準化ができていない。
・体系だったシステムアーキテクチャーの知識共有の教育をしていない。
・質的技能を無視した量的経験だけで「うちのやり方」が通用し、
 全体のモチベーション低下より一部の個人の保身の重要度が強くなる。
こういった職場の場合、業務設計や交渉も杜撰で、そのしわ寄せが不効率な残業と言う形で現れる。また、社員の勤怠管理で「残業する社員=がんばる社員」と言う世界的な非常識が顔を出す。
これは、公的機関や大企業よりも中小企業が陥りやすい傾向にある。
もともと権威があったため統治不要だったが、雇用の流動化などで権威が急速に失墜したため、代わりに暗黙の了解による権力構造が台頭している訳である。
もしこの仮説が実証できた上で、社会政策のテーブルに乗せることができれば、恐らくこの国における高度専門職の移民受け入れは、欧米ほどに進み、後世に負の遺産を残すこともないと思うのだが、いかがだろうか。
by jun_hara | 2016-02-21 01:50 | 独り言