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信じること



京都大学出身のある教授が、退官を迎えた河合隼雄に「臨床家にとって、大切なことはなんですか。」と聴いた答えが「最後は、信じることやね。」だったそうである。
僕は高校時代の化学の先生のことを思い出した。普段、人間観については触れずに論じている授業を横に置いて、前日観た「砂の器」の映画解説を始めたのだった。この映画は、ハンセン氏病を物語の背景としたことで、人間の宿命や精神に関わる研究を続けている身としては永遠の課題のように思われる。普段、自然科学について冷静に論じている先生が、この時ばかりは涙しながら話していたことを昨日のことのように記憶しているのである。
この時の先生の様子について、後で茶化す男子がいて、そいつが普段僕といるやつだったため、仲の良かった女友達から「あんな、人の心もわからない〇〇君と一緒にいるなんて。」と言われたことがあった。それに対して言い返す言葉もなかったが、心の底では「その正義感による意見も、人の心をわかっていない言葉ではないだろうか」とぼんやり思っていた。今なら「それも一つの自我防衛」なんて一言で終わってしまうが、多くの人にとって、この「正論」や「正義」とやらが人間関係をこじらせる要因として重いのだろうと思う。

科学というものは、批判的精神を失うと存在理由が危うくなる。ここでいう科学とは、自然科学のことである。科学には自然科学だけではなく、人文科学、それに遅れてきた社会科学が存在する。
自然科学と人文科学の大きな違いは、前者が神の作った神羅万象についての原理・原則について探究を行うのに対し、後者は人間が作り出した創造物についての研究を行う。よって、自然科学の扱う対象に「信じる」という価値観は必要ない。神が作ったものであるならば、「信じる」以前に「受け入れる」しかないからである。かたや、人文科学は人間の価値観を主題とする。要するに小説や文学の内容が事実かどうかは二の次である。
この定義に基づけば「社会科学とは何か」については難しい。社会が作り出したもの自体の定義があいまいだからである。心理学はこの社会科学に重心を置いているのであるが、遅れてきた学問でもあることから、自然科学的手法(主に統計学)で探究を行う「行動主義的心理学」と、人文科学的手法(主に事例研究)を中心にする「心理臨床」というものが存在する。もちろん、「心理臨床」という概念は日本独自のものであることは織り込み済みで論じている。この「心理臨床」という実践に存在理由を置く臨床心理学に、河合の言う「信じること」の大切さが含まれている。つまり生身の人間を相手にする心理学からは「人間観や意味づけ」は排除できないのである。ただ、教育や哲学、それに宗教と違うところとしては、「道徳や正義」といった価値観が極力排除されていることではないだろうか。もちろん、人間観のない心理学などと言うものはない。少なくとも「個人の幸福」といった程度のしばりは、目標というか、存在理由のひとつとしてある。

このような論理展開になると、批判的精神という、権威に対して「疑うこと」から始まった自然科学に基づく心理学と、クライアントの魂とでも言うべきものを「信じること」によって成り立ってきた心理臨床は、相いれない概念ではないかという壁に突き当たる。しかし、これは二律背反するものではなく、多層構造をなしてクライアントに関わる大切な観点を示唆している。要するに「間主観的な認知による関係性の構築」と表現すればいいだろうか。
クライアントとの関係性で成り立つ心理学の実践現場では、「行動主義的心理学」による仮説生成能力と、「心理臨床」による信頼感の形成能力が不可欠であり、どちらも座学では体得できない経験値が必要であると思われる。
間口は「疑うこと」から始まるにしても、その延長線上に「最後は、信じること」があるといった価値観が必要なのではないのだろうか、と思うのである。
by jun_hara | 2016-06-30 21:43 | 独り言