個性化と社会化


自身でも長いこと音楽活動をやってきて、羊子ちゃんのようなミュージシャンを見続けてきたら、アーティストに個性化というのもが不可欠であることを実感できる。

心理学では個性化はよく社会化との対立概念で用いられる。
現在、発達過程において臨床心理学や精神医学の現場で問題視されるのは社会化の欠如であり個性化はスルーされる事が多い。
これは一人の人間という存在が家族を最小単位とし、広くは地球規模に至るまでコミュニティの中で初めて成り立つものになっているからである。つまり、社会に適応することこそが正常と解釈されてきた所以である。とりわけ日本においては、戦後高度成長期に規格大量生産を成功モデルとしてきた時代精神が人間においても当てはめられ、偏差値教育をあげるまでもなく、平均値から外れない事が異常とみなされない大前提になってきた。
しかし、近年の社会病理を考察する場合、この「社会化」並びに「適応」という概念自体の普遍性が疑わしくなってきているのではないだろうか。
昨年まで東京で四半世紀暮らして来て、これを痛切に感じたのは2011年の東日本大震災以降である。株価だけを見ると一見この5年でリーマンショックから経済が回復しているように見られるが、実体経済は格差が広がり正規非正規雇用の比率はこの25年で倍増している。それに伴う可処分所得の減少と社会保障費の圧迫などで、将来不安を抱かない方が常識はずれになってしまった。また、東京の通勤ラッシュの時間帯では、毎日どこかの駅で人身事故があり、電車遅延が日常茶飯事になっており、報道にも乗らない異常が日常になっている。この現象と自殺率との因果関係を裏付けるデータは未だ存在しないが、会社勤めの立場だった時を考えると、明らかにこの時間帯が一番「死んでしまいたい」と思う時だというのは合点がいく。実際に1年半前のプロジェクト現場で発生した同僚の自殺も早朝だったが、会社という組織においては、これに対処できる柔軟性など失っており、外部機関においても現実的な予防対策をとれるようなシステムがない。

社会というものは個人を生存させるために意義がある概念であり、それ自体に「余裕」、即ち、車のハンドルで言うところの「遊び」がなくては、容易に個人を殺す存在に転換してしまう。要するに個人よりも社会のほうが病んでいる訳で、適応すべきなのは個人ではなく社会のほうである時代に到達してしまったと思われる場面が多々ある。
ここにおいて臨床心理学や精神医学に求められることは、これまでの「社会化」並びに「適応」に対する解釈の転換ではないだろうか。
例えば、発達障害愛着障害といった診断分類はそれまで解明できない症例に対し細分化ができるようになり、少なくとも親の養育態度などが単一原因ではないレベルまで説明できるようになったことは画期的である。しかし、ここにもdisorder(障害)という表現がDSMに残されているし、日本の特別支援教育においては都道府県などが行う行政機関として適応指導教室という表現が残されている。つまり厳然として「社会に適応すべきなのは個人である」が常識のまま残り続けている訳である。

右脳と左脳の相補性に対する解明はとてつもない速さで進んでいる。例えば、交通事故などで言語機能が損傷された部位(左脳)に対する補償部位(右脳)機能の存在が検証できるようになってきた。しかし、脳科学で解明されているものの上位概念として心の理論などがあげられるが、これら社会生活に必要と言われている発達水準の概念に対して明確に説明できている訳ではない。もし、これらの概念を説明できる科学技術があるとすればMRIなどの脳の診断画像だけでは不十分で、シュミレーション技術との相関関係を分析していかなければ知見の積み重ねにはならないだろう。ここに心理学研究法を投入する意義が残されている。

今後の日本を支える産業を考えてみると、情報処理産業の具体的派生及び応用産業として、農業や文化コンテンツ産業などがあげられるが、それぞれの場において求められる人間の能力は想像力や創造力であり、その源泉は個性である。ここに「みんなと一緒」の能力はむしろ邪魔となってくる場合さえある。勿論、秩序の維持を形成することは重要であるが、既存の概念や社会システムの転換期においては、これまでの常識を覆す理論の構築や実践活動が不可欠なはずである。
知性と科学を基盤にする現在において論理の飛躍は許されないが、常識を疑う事から始めなければ現状打開の原点にはならないことは明らかであり、その芽を摘むことのない社会教育や心理教育が求められている時代になっていると痛切に感じる年の瀬である。
# by jun_hara | 2015-12-29 18:37 | 独り言

発達障害

e0027033_2155477.jpg発達障害とは、様々な要因によって、生まれ持って脳に障害を持ち、行動に偏りがあったり、苦手なことがあったりし、問題や生きづらさを抱えている障害である。
今のところ生物学的な治療法はなく、療育の対象とされている。
2013年に改定されたDSM-5においては自閉スペクトラム症、ADHD(注意欠如・多動症)、LD(限局性学習症)の3タイプに分けることができるが、これらは独立したものではなく、それぞれが重複して症状が発覚する場合もある。

自閉スペクトラム症とは、これまで広汎性発達障害と言われていたもので、自閉症・高機能自閉症・アスペルガー症の明確な分類が難しいことから、症状の重篤度をスペクトラム(連続体)として診断する前提で一つにまとめられたものである。
具体的な症状には社会相互性の障害、言語コミュニケーションの障害、想像性の障害などがある。
社会相互性の障害は、母親が指さした方に興味を示さないとか、興味を持ったものを指さして母親の同意を求めるなどの態度がみられないといった「共同注意」が成り立たないことや、危険な場所に差し掛かった時に母親が危ないといった表情を見せても理解できず「社会的参照」が成り立たないことなど、発達的二者関係の不成立が挙げられる。
言語コミュニケーションの障害は、「これは何ですか?」と言う問いに「これは何ですか?」とオウム返しするなど、会話によるコミュニケーションが成り立たない障害を指す。
想像性の障害は、具体的事象については理解ができるが、抽象的概念についての理解が難しいことをさし、いわゆる「心の理論」における誤信念課題に答えられない状態を意味し、後の集団生活において、共感・冗談・比喩などの点で問題が生じる可能性が高い。

ADHD(注意欠如・多動症)は読んで字のごとく集中力、注意力が散漫で、じっとしていられないのが特徴で、考えるよりも先に体が動いてしまう衝動性もある。またそれぞれの症状が個別に現れる場合もあり、すべてが当てはまるわけではない。
この症状は対人関係能力に障害を持ち、同じ動作の行動をとったり、こだわりが強かったり、興味を持つものが偏っているというような症状があり、とりわけ学校など集団生活において、「不注意」を怠け者とか、「多動性」をしつけが悪いとか、「衝動性」をわがままとか解釈されがちで、親の教育のせいにされることから発覚する場合も少なくない。

LD(限局性学習症)とは、これまで学習障害と言われていたのもで、全般的な知的発達の遅れはなく、「書く」、「読む」、「計算する」、「聞く」、「推論する」など、能力の中で特定のものや複数が出来ない障害であり、症状が軽いと気づくのが遅れる場合がある。

いずれの症状にしても、脳の器質的な理由が考えられ、親の養育が原因ではない。むしろ、社会全体が発達障害を理解することは、個性にあった教育や支援をすることが重要であり、安易なラベリングに終わってしまっては、後の人生において子供の自己評価を低減させ、うつ病や反社会性といった二次被害をもたらすだろう。

現在のところ、脳の器質的因子が言われているが、その発症原因は特定されておらず、社会病理学的な観点からも研究されなければ、根本的な解決には至らないだろう。
例えば、コンビニ弁当などの添加物だらけといった化学物質の食物や、生活の都市化に関わる職場のストレスとコミュニティの崩壊が夫婦関係に起因する問題など、一見関係がないように思われる社会構造が関わっていることは推察される。
また以前、精神遅滞と呼ばれていた知的能力障害においても、知能検査のIQが年々高くなる傾向を周知しなければ、知育偏重の連鎖に拍車がかかるだけで、個性を無視した早期からの習い事やお受験の片棒を担ぎ続ける教育の歪みから脱却できない。
実際、発達障害とは対照的な、養育者の虐待やネグレクト(育児放棄)による愛着障害も問題となっているが、症状として合併する部分が少なくない。愛着障害は養育者による早期に成立する安心感と信頼感に基づいた絆による愛情欲求の充足不足であるとされるが、発達障害とは気付かず、思い通りに育たない子供に対して虐待やネグレクトをしてしまうケースもあるだろう。
また、境界性パーソナリティ障害などの人格障害とされる事象においても、発達障害である可能性が否定できず、アセスメントにおいても支援においても、生物・心理・社会モデルなど多角的な観点から配慮されるべきである。
また近年、早期発見・早期支援により社会適応していく事例も出てきており、18か月児検診や3歳児検診でも発達検査が実施されているため、周知の徹底が望まれる。

以下、「特別支援教育」に基づく2004年に定められた発達障害者支援法の第一章総則(目的)第一条である。
 この法律は、発達障害者の心理機能の適正な発達及び円滑な社会生活の促進のために発達障害の症状の発現後できるだけ早期に発達支援を行うことが特に重要であることにかんがみ、発達障害を早期に発見し、発達支援を行うことに関する国及び地方公共団体の責務を明らかにするとともに、学校教育における発達障害者への支援、発達障害者の就労の支援、発達障害者支援センターの指定等について定めることにより、発達障害者の自立及び社会参加に資するようその生活全般にわたる支援を図り、もってその福祉の増進に寄与することを目的とする。
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/tokubetu/05011301.htm
# by jun_hara | 2015-08-13 21:56 | 情報

一人でいられる能力


「一人でいられる能力」はウィニコットが「情緒発達の精神分析理論」で提唱した概念であり、高度に知的加工の加えられた現象である。
そこには多くの貢献的な要因が潜んでおり、情緒的成熟と密接に関連している。一人でいられる能力の基礎は、誰かと一緒にいてしかも一人でいる体験である。このようにして弱い自我機構をもった幼児は自我の支持をたよりにして一人でいることになる。
自我の関係化の枠組のなかでイド関係がおこると未熟な自我をだめにするよりむしろ強化する働きをもつ。次第に、自我を支える環境はとり入れられ、個人の人格のなかに組み込まれる。そこで本当に一人でいられる能力ができあがる。
この概念は現代の日本の教育環境においては、もっと流布されるべき概念である。
具体的には、いじめや引きこもりが社会問題になって孤立することが問題視されがちであるが、子供の頃に孤立する体験は決して負の側面だけではない。
むしろそういった経験をする時期においては「どう生きるかを考える重要な能力の発達要素」として捉えた方が良い場合が多いと思うのである。
ここでは孤立を勧めているわけではなく、人生にはいずれそういった時期が訪れる時があり、それに直面する経験は早いに越したことはないという意味であり、また、この経験をする時には、親に限らず他者の見守りが必須として前提にある。
一般的には「人はひとりでは生きて行けない」「友達は多い方がいい」という前提が支配的であったが、個人の内省はひとりの時間において成熟する。この時期を経ずに自立した大人同士の関係性が成立することは難しい。男女関係においても、性行為の後に一人の時間を楽しめないというのはどこかしら、この疑いをもったほうがいいと考えれば解りやすいだろう。
ただ「真の孤立無援」についてはどうだろうか。
「一人でいられる能力」は乳幼児期に成立する能力であるが、その後の児童期、青年期を経て、成人期に至るまでは理解できる。この能力の前提には「離れていても大切な人は存在する」という認知が前提にあるからだ。
しかし、中年期に多い離婚や老年期における配偶者との死別においてまで「一人でいられる能力」は適応できるのだろうか。
少子高齢化と都市化によるコミュニティ崩壊が圧倒的な速度で進む中、孤立世帯の急増は避けられない。
近年の中高年男性の自殺率の高さは物理的にも心理的にも「真の孤立無援」になったことが引き金であることが多いと思われる。ここでの不思議は、この理由による自殺者が女性ではないことである。
日本の平均寿命は1990年が女性81.90歳,男性75.92歳で2014年が女性96.83歳,男性80.50歳であり、ほぼ15歳差が続いている。要するに高齢者の一人世帯は圧倒的に女性が多いのである。
ここで重要なのは「一人世帯=孤立世帯ではない」ということである。要するにレジリエンスの因子として、「I HAVE(他者との信頼関係を築き、ネットワークを広げる力)」を掲げられるが、この点においても女性の方が男性よりも圧倒的に強い。
逆にこの仮説が成り立てば、男性のほうが「一人世帯=孤立世帯」になりやすいと言える。
もしこれを予防するとするならば、「男子たるもの」といった時代錯誤の信念を修正し、孤立による「うつ」の偏見を軽減していかなければならないはずである。
中年期以降、日ごろから仕事以外家族以外の「深くてあとくされのない関係」があってもいいといった常識が成り立つよう、社会意識が変わっていくべきだと思うのである。
少なくとも「深くてあとくされのない関係」を酒場のママだと思ってはいけない。
酒場で甘えられるのは「うつ」になっていないからであって、もし「真の孤立無援」になって、そんな場所に頼ったら、取り返しのつかない状況になるか、店を追い出されるのがオチである。要するに夜の世界には快楽や癒しはあっても、倫理規定や心の危機に対する専門性はない。
つまるところ、今後の臨床心理士が食っていく領域として、男性の一人世帯等における「金を払って人には言えない話を聴いてもらえるシステム」として機能することが求められると思うのだが、はたしてどれくらい現実味のある話なのだろうか。
# by jun_hara | 2015-08-07 07:07 | 独り言

DSM-5

e0027033_2150717.jpgアメリカ精神医学会(APA)が作成したDSM(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders:精神障害の統計・診断マニュアル)が世界共通の精神障害(精神疾患)診断基準として広まり始めたのは、1980年のDSM-Ⅲからである。
それまでの精神医学の分類では病因論に主眼が置かれており、その根拠となる理論は共通化されていなかった。
そのため同じ統合失調症でも別の医師から観れば双極性障害であったりと、診断が一貫しておらず、勿論、介入技法も統一されたものではなかった。
そこで学派を超えて、各精神障害の症状や特徴を列挙した一覧表を作成して、その症状や特徴のうち○○個以上が当てはまっていればその精神障害だと診断すること(症候論及び多神論的診断)ができるという、誰もが使えるように工夫された『マニュアル診断』として完成したのがDSM-Ⅲである。
またDSM-Ⅲからは診断基準として
第Ⅰ軸……精神疾患
第Ⅱ軸……精神遅滞(知的障害)とパーソナリティ障害(人格障害)
第Ⅲ軸……身体疾患
第Ⅳ軸……環境的問題(心理社会的問題)
第Ⅴ軸……機能の全体的な適応評価(GAF:Global Assessment of Functioning)
と言った5つの軸からなる診断を基準として設けた。これを多軸診断と言う。
DSM-Ⅲの登場により診断の統一基準ができたことで、世界共通の診断が可能になったことと同時に、あくまでも統計学に基づくマニュアルであり、その後の研究と知見によって改定されることを目的とされたものなので、1994年にはDSM-Ⅳに改定され、2000年にはDSM-Ⅳ-TRに改定されている。
しばらく改定がなされていない中、2013年にDSM-5に改定され2014年に日本語版も登場したのであるが、精神疾患分類名以外で大きな改定となったのは、「多軸診断の廃止」と「多元的(ディメンション)診断の採用」である。
DSM-Ⅲ以来取り入れられていた多軸診断は精神疾患の因子として第Ⅳ軸など心理社会的ストレスなどが尊重されたものであったが、実際の臨床現場においては第Ⅰ軸の精神疾患基準しか用いられていないという現状があり、廃止されたという経緯がある。
多元的診断というのは、自閉症スペクトラムに代表される各疾患単位や各パーソナリティ障害のスペクトラム(連続体)を想定して、各種の精神疾患・パーソナリティ障害・発達障害の重症度(レベル)を『パーセント表示(%表示)』で表そうというものである。
この症状や不適応の重症度のレベルをパーセントで表現しようとするアイデアは、古くから認知療法や論理療法の『自己評価方法(気分が最高の時を100%、最悪の時を0%にするなど)』として採用されていたものでもある。
しかし、自閉症スペクトラムへの統合においてアスペルガー障害の分類をなくしてしまったことで、これまでの知見の蓄積が生かせなくなることや、正常と異常の明確な分類がなくなることで、診断があいまいになり、自己治癒力のある人までも精神疾患に振り分けてしまう危険性などが指摘されており、DSM-5の批判は少なくない。
DSM-5への改定においてこれだけ期間があいたのは、脳科学、神経科学、遺伝子科学の飛躍的な発展に伴い、症状に対する科学的解明が期待されたからであったが、あくまでも統計学の領域を出ないマニュアルとしては統一的見解を出すことに難しさがあったのではないかという意見がある。
と言うのも、DSMに研究や知見が採用されると言う事は、医学者や製薬業界にとっては莫大な利益をもたらすからで、事実、DSMの制作委員会へはかなりの売り込みや政治的な圧力があったと言われている。
# by jun_hara | 2015-08-01 21:50 | 情報

コラージュ療法

e0027033_17184076.jpg表現療法としてのコラージュ療法は、雑誌や広告などから写真や絵などを切抜き、台紙に貼って一つの作品を作るという、極めて簡単な方法で自己の内面を自ら振り返るという自己表現が可能となるので、不安や問題点を作品を通して理解することだけではなくて、自らが癒される効果(カタルシス効果)がある。
ストレスの発散、満足感、達成感を得られることだけではなく、言葉にできることは、意識をしたり自分で気づくことができるが、無意識的な自己に気づくことで人と信頼関係を構築するのにも役立つ。

表現療法のひとつに箱庭療法がある。
これは、内側が縦57cm・横72cm・高さ7cmの青い箱の中に砂で自由な空間を創作し、その上に棚に並べられたフィギアの玩具を選んで置いていくといったものである。
この技法はスイスの分析家ドラ・マリア・カルフによって開発されたもので、言語的な表現が苦手である日本人にも有効であるという観点から、河合隼雄が日本に紹介し全国的に広がった経緯がある。
具体的には、心理相談室などに箱庭専用の部屋があり、場と枠に守られた空間において、クライアントが自由にイメージを表出することで、言葉にならない自己像や意識化されていない感情を表現することに意味があるとする心理療法である。
セラピストはクライアントが表現するものを逐一解釈・分析するのではく、その表現活動に寄り添い完成されるのを待つことに留め、クライアントの心に対し共感的に受容することに主眼が置かれる。

箱庭療法が来所型の心理療法であるのに対し、アウトリーチの重要性が言われる中、「持ち運べる箱庭」として提唱されたのがコラージュ療法である。
この療法は主にコラージュ・ボックス方式とマガジン・ピクチャー・コラージュ方式に大別され、詳細は以下の通りである。


・コラージュ・ボックス方式
クライアントのためにセラピストが雑誌、パンフレットから絵や写真、文字などの面白そうな材料を集めて、切り抜き、それを30~50ピースにまとめて箱の中に入れて置く。その中からクライアントは、切り抜かれた紙片を選び出し台紙の上に自由にレイアウトし、貼付ける。
〈長所〉あらかじめ危険なイメージなどを除いて、相手に合わせて内容を調整できる。年代、性別に合わせて、複数の箱を用意することや、箱に入れての持ち運び可能がであるし、制作時間の短縮にもつながる。クライアントは、自分自身で切り抜くよりもまとめることが容易になる。
〈短所〉集団的使用に難点。セラピスト側の想像力による制限がある。セラピスト側にあらかじめ切り抜く手間がかかる。
・マガジン・ピクチャー・コラージュ方式
雑誌、パンフレットから絵や写真などの材料を用意し、クライアントはそれを自ら切り抜きる。雑誌などをセラピスト側が用意する場合と、クライアント自身が自ら持参する場合がある。
〈長所〉集団的使用に適する。クライアント自身の身近な材料を選ぶことができ、セラピストの予想を超える表現が生まれる可能性がある。
〈短所〉切り抜き内容が相手まかせであるために、クライアントの想像力による制限がある。制作に時間がかかる。

とりわけ、コラージュ療法は重度の身体障害者など、自らの身体を使って表現できない人達に対しても、セラピストが出来うる限りの準備をすることで表現の補助をすることが可能であり、技法の活用範囲が広いと言える。
# by jun_hara | 2015-07-31 17:18 | 情報

アクセプタンス&コミットメント・セラピー(ACT)

e0027033_2250161.jpg認知行動療法(Cognitive behavioral therapy、以下CBT)の第3勢力として行動療法的認知行動療法であるACTが注目されている。
基本的にCBTが伝統的な心理療法と違うのは、不適応などを発症させている初期原因に遡るのではなく、不適応を持続させている原因(持続原因)に焦点をあてている事が最大の違いである。
これは不適応な認知や行動についてその原因を「分離-個体化の乳幼児期」、「エディプス期」などの発達論的な観点から探ることよりも、どうすればその不適応という現象が消去でき、適応的な認知や行動を学習できるかに集中することを意味する。
要するに「初期条件(または原因)がわかれば治療できるのではなく、持続条件(または原因)がわかれば治療できる」とする所以である。

CBTは一つの治療法ではなく、起源が異なる暴露法などの行動療法(第1勢力)と認知再構成法に代表される認知療法(第2勢力)の統合的療法の総称であり、一般的にCBTと言う場合、認知療法を指していることが多い。
ただ現場においては、こういった厳密な区分を設けず、ランダム化比較試験などの効果研究に基づき、仮説検証型のケース・フォーミュレーションを行い、「あるものは何でも使う」といった態度もCBT的であると言える。

CBTの名のもと、さまざまな新しい臨床技法が登場してきたが、ここにきて一番注目されているのがACTである。
第3勢力として押さえておくべき概念が「アクセプタンス」、「コミットメント」、「マインドフルネス」である。

「アクセプタンス」とは、与えられているもの(感情、思考、症状、身体感覚など)、「今、ここ」で経験しているものを、判断を介さず受け取ること。
「コミットメント」とは、具体的なホームワークや行動的エクササイズを使って、「価値」に沿った(障害からの回復に)効果のある行動をすること。
「マインドフルネス」の状態とは、ある特定の仕方で注意を払うこと、つまり、目的にそって、当該時点において、無評価的に注意を払うこと。

アクセプタンスを行うためには、当然、注意を向け続けること、判断を避ける(あるいは素早くそれを解き放つ)こと、さらに覚醒の程度に気を配ることなどに対して、マインドフルネスに関わる必要がある。
これらは非常に東洋的な概念であるが、それ故日本人に馴染みやすいものだと思う。

ここで重要なのは、マインドフルネスが中心概念になっているが、この前に必ずアクセプタンスが裏打ちされていなければならないことである。
アクセプタンスを忘れて、マインドフルネスはない。日本の精神、文化、芸術には、アクセプタンスが流れている。大きなものの愛情、慈悲に包まれている=受容されている、根底に包むものがある、これが日本人の精神の根底にある。受容されないと、落ち着いて、マインドフルネスできない。これからは、マインドフルネス心理療法、マインドフルネス心理学ではなく、アクセプタンス心理療法、アクプタンス心理学を強調していくことが大切であるように思う。
日本では、特にそうである。
こどもがクラスメートをいじめるのは、ささいな不愉快さを受容できず、存在全体を受容しないのである。この同じような状況が虐待、暴力と見捨てられ不安、社会におけるぎすぎすした人間関係、うつ病に追い込まれる働く人、高齢者への虐待、・・・。国と国の争いも。アクセプタンスがないのである。親が子を受容しない、子が親を受容しない、夫婦が互いを受容しない、職場で同僚、部下を受容しない、非正規社員を受容しない、医療・福祉の現場で相手を受容しない。アクセプタンスの底の底も、西洋と日本とでは違うようである。
日本人は、どんなに悪い自分でも見捨てられない、無条件で、絶対的に受容されているという安心を求めてきた人種のようである。東洋のうちでも条件つきの受容があって、日本は特に無条件の受容心を発見したのである。人が生きていくうえで、自分がアクセプタンスされていてこそ、相手にやさしくなれるのである。相手の不十分なことを受容して、対決しない行動を求めていけるのである。
相手の底にも人格を見るからだ。
ささいなことで怒り、比べようもないほどの命をうばうこと、自殺に追い込むことをしない。
アクセプタンスがないマインドフルネスは破綻すると思われる。

ことほど左様に、日本人特有の魂のようなものがあるとするならば、こういった価値観と歴史が根底にあると思われるのだが、これはあくまでも論理的仮説にすぎず、初期条件(または原因)を求めないCBT的思考法からすれば不要かも知れない。
# by jun_hara | 2015-07-21 22:28

決して彼等のようではなく

作詞:小田 和正、作曲:小田 和正

時は誰れかを 道連れにして
幾つかの時代を 終えてきた
そのたび君は ことば捜して
時代の後から ついて来ただけ
心は 何処にある
心は 心は
心は 何処にある
心は 心は

なにを見ても なにをしても
僕は 僕の ことばでする
やりたいことも やるべきことも
今 ぼくの中で ひとつになる
ためらう ことはない
このまま 走るよ
あなたの為にうたう
すてきなことだろう
心は 何処にある
心は 心は
君とは いつまでも
心は 通わない
君とは いつまでも
心は 通わないだろう
今こそ 焦らないで
今まだ 語るな
今なら まだ戻れる
今なら 間に合う
# by jun_hara | 2015-07-19 00:07 | music

「『心理臨床』という専門性の共有を考える」より

日本の臨床心理(もしくは心理臨床)をとりまく環境はドラスティックに変貌をし続けている。
元々、心理学(学術的心理学)も臨床心理学も西欧からの輸入学問を発祥としているため、文化差を念頭に置いた人間観を一義的に変換できないといったジレンマが存在するが、それでも社会的病理であれ、個人の社会不適応への介入であれ、臨床の必要性だけは増加する一方であることには誰もが異論なきことだと思われる。
その中心的役割を果たしてきた日本の臨床心理士資格について、この数年で大きな転換点に立っている。
1995年の阪神大震災と2011年の東日本大震災を持って、臨床心理士の社会的存在理由は周知されたかのようであるが、この資格が国家資格ではないことを知っている人は少ないのではないだろうか。
裏を返せば、心理療法は社会保険料適用外であり、臨床心理士にはその報酬や保証も存在しない資格なのである。
一方、あらゆる領域(教育、医療、産業、司法、福祉)において必要不可欠でありながら、その活動範囲が広くて深くなりすぎている問題から、専門性と総合性のバランスにおいてアイデンティティが確固たるものでないことも内在している資格であり、この資格で食べていくには、あまりにも経済的基盤が不確かな職種にしか開かれていない現実がある。
これを裏付ける事も含め、以下の文面を引用する。

心理療法の現在に関する検証一臨床と研究の即応的関係の構築一

大山氏は、近年の心理士を取り巻く状況は、個々の心理土に心理臨床のコアが問われる状況にあると言います。心理土の若年層が増えている現況は、心理士の専門性の継承を難しくしています。また、複数の領域にまたがって勤務する心理土の増加や、領域の細分化によって求められる専門性も細分化されることで、心理土としてのアイデンティティが揺らぎやすい状況もあります。大山氏は、このような背景が心理土間で心理臨床のコアを共有しにくい状況をもたらしていると指摘します。また、大山氏はご自身のドイツでの経験から、言葉や国を超えた普遍的な心理臨床のコア成るものが存在する可能性や、その一方で日本の心理臨床の考え方に精神分析的なアプローチと森田療法的なアプローチの両方が存在する特殊性の可能性について話題提供がありました。また、心理臨床のコアなるものを明確に語ることは難しい作業であるとはいえ、心理臨床のコアの周辺を語り、それを積み重ねていくことで少しずつ明確化されるのではないかとの指摘がありました。大山氏の研究成果や内外の研究成果を踏まえて、心理臨床のコアに関わるものとして、多様な可能性や解釈に開かれた態度、見立てを絶えず修正しながら関わる態度、面接者とクライエント間での身体共鳴の成立、フォローアップ発話中心の関わり等を挙げられました。これらを踏まえて、全てのよい心理療法の基底にはやはりクライエント中心療法の要素が含まれていることと、面接の場で生じていることを把握しつつもそれ以外の可能性に開かれている態度、そしてまだ言葉になる前の自分の微細な心の動きに開かれている態度が、心理臨床のコアを構成するいくつかの側面ではないかという指摘がありました。

# by jun_hara | 2015-07-07 21:55

愛着(アタッチメント)

e0027033_22543178.png辞書で「愛着」とは、長い間親しんだ物などに心が強くひかれて離れられない気持ちとある。
一方、心理学用語である「愛着(アタッチメント)」も二者間、とくに親子の間の「愛情の絆」を意味するものと考えられているが、もともとの意味は、文字どおり他の個体への近接(アタッチ)を通じて、安心感を回復・維持しようとする傾性のこととなる。

イギリスの児童精神科医であったボゥルビィは、個体が危機的状況に直面し、あるいは危機を予知して不安や怖れなどのネガティブな感情が強く喚起されたとき、特定の他個体にしっかりとくっつく、あるいはくっついてもらうことを通して、主観的な安全の感覚を回復・維持しようとする心理行動的な傾向を「愛着(アタッチメント)」と定義づけた。つまり、不安や怖れなどの感情の乱れを自己と愛着対象との間の関係性(二者関係:対幻想)によって調節する仕組みが愛着(アタッチメント)であり、愛着対象への接近可能性や愛着対象の情緒的応答性に関する表象モデルをボゥルビィは「内的作業モデル(internal working model)」と呼んだ。

たとえば、危機に際して逃げ込み保護を求める「安全な避難所」としての経験が子どもにとっての愛着対象は安心できる人として認識され、感情状態が落ち着きを取り戻した時にそこを拠点に外の世界に出ていくための安全基地として機能することになる。

こうした愛着経験(内的作業モデル)は内在化され、対人関係のテンプレート(雛形)となる。
養育者との愛着関係を離れて、対人情報を知覚、評価、予測し、行動プランニングを行うことを「愛着パターン」と呼ぶ。つまり対人関係のパターンの基盤となる対人世界に寄せる信頼や自尊感情が「愛着パターン」ということになる。
一方、愛着対象である養育者(主に母親)の愛着希求に対しての情緒反応性を「ボンディング(bonding=絆)」とか「母親からの愛着(Maternal attachment:マターナル・アタッチメント)」と呼ぶ。
愛着が成りたつためには、子ども側の愛着要求と愛着対象の情緒反応性が呼応することが必要であるが、ここにはさまざまな問題が関与してくる。

子どもへの情緒反応性の問題は「ボンディング(絆)の障害」子どもの愛着要求の問題を「愛着障害」そして通常の二者関係の問題としての「関係性の障害」という3つのパターンに分けられる。
愛着(アタッチメント)研究の流れも、愛着(アタッチメント)の質を個人の特性とみなす流れから、相対的に友人関係や恋愛・配偶者関係、およびそれらの中での孤独や葛藤、感情調節などなど、愛着(アタッチメント)を二者関係の特質や状態とみなす傾向が出て来ている。

対人関係の基盤となる「愛着パターン(あるいは愛着スタイル)」そしてその核心である「内的作業モデル」の成長に伴う変化や適応、「愛着障害」や「アタッチメント(愛着)関連トラウマ」「発達性トラウマ障害」など「対人トラウマがかかわる疾患(PTSDなど)」との関係、「慢性うつ病性障害(気分変調症など)」の自尊感情との関係、それから対人関係療法などの心理的援助において愛着をどう扱うのかなどの応用について、今後の実践的データの蓄積が期待されている。
# by jun_hara | 2015-06-28 22:57 | 情報

心の理論


「心の理論」は、ヒトや類人猿などが、他者の心の状態、目的、意図、知識、信念、志向、疑念、推測などを推測する心の機能のことである。
もっとくだいて言えば「心の能力」の理論と言った方が解り易い。
十人十色と言われるように、人には人の考え方があって、他者にも自分と同じように心(主観)が存在するのだと言う事を認知できる能力を指す。
まるで当たり前のように思う方が自然かもしれないが、人の発達におけるこの能力の体得は、今の心理学の中心テーマになっている。

哲学者ダニエル・デネットは子供が「心の理論」を持つと言えるためには、他者がその知識に基づいて真であったり、偽であったりする志向や信念をもつことを理解する能力、すなわち誤信念を理解することが必要であると示唆した。これに基づきハインツ・ヴィマーとジョゼフ・パーナーは心の理論の有無を調べるための課題を提案した。これを誤信念課題(False-belief task)という。この課題を解くためには、前述したように他人が自分とは違う誤った信念(誤信念)を持つことを理解できなければならない。

最も有名な課題がサリーとアン課題(Baron-Cohen S, Leslie AM, Frith U (1985))である。
1.サリーとアンが、部屋で一緒に遊んでいる。
2.サリーはボールを、かごの中に入れて部屋を出て行く。
3.サリーがいない間に、アンがボールを別の箱の中に移す。
4.サリーが部屋に戻ってくる。
上記の場面を被験者に示し、「サリーはボールを取り出そうと、最初にどこを探すか?」と被験者に質問する。 正解は「かごの中」だが、心の理論の発達が遅れている場合は、「箱」と答える。

この課題により、人が「心の理論」を体得するのは4歳だとされている。

しかし、この課題は言語の文脈が理解できる発達年齢であり、いわゆる言語能力を体得する前に、この能力は体得されているのではないかという反論があり、実証実験されたのが今回の動画である。
乳幼児は言葉を発することは出来ないので、一般的には乳幼児の事物に対する注視時間の長さを持って測定することになる。

この能力が注目されるのは昨今言われる自閉症スペクトラムと関連があるからである。
健常児が4歳ごろから解決可能になる誤信念課題を自閉症児がなかなか通過できないことで知られている。この結果に基づき、自閉症の中核的障害が「心の理論」の欠如にあるという考え方が提案されている。ただし、すべての自閉症児が誤信念課題に失敗するわけではなく,通過する自閉症児も一定の割合でいること、そしてこのような実験が言語による教示を解するいわゆる「高機能」の自閉症児に対して行われてきたことなど、「心の理論欠如仮説」に反する証拠も存在する。

いずれにせよこの概念の研究は認知神経科学や進化心理学で脳の活動と関係があることがわかりつつある。
また、これまで心理学的な概念としてあった高次の心的機能である「共感的理解」や「社会的規範」の認知などが、脳の活動とのつながりで実証される日も近いと期待されている。
# by jun_hara | 2015-06-28 00:46 | 情報