このあたりで僕の東京生活での中核をなしてきた音楽活動についてまとめてみたいと思う。
【僕がライブハウスに出演するようになった訳】
僕が初めてライブ出演したのは35歳で、1998/10/8(木)の四谷コタン対バンライブだった。
この時は積極的にオーディションを受けた訳ではなく、
当時、新宿の日本初YAMAHAクラッセ・シンガーソングライターコースに通っていて
このコースを創設した五十嵐先生から「お前はここに来る必要はない。そのかわりライブハウスのオーディションを受けろ。受かるから。」と言う事で、
同じ教室の女の子が出演していたハコであるコタンのオーディションを受けたことから始まった。
この頃はギターとピアノの弾き語りと言えば東京で一番の老舗で、オーディションでは目がギラギラした応募者がいっぱいいた事を憶えている。
なんとかオーディションは合格となり月1で出演するようになり、今でも出演者の付き合いがあるのは、ほぼコタン繋がりだけである。
実は最初のブッキングライブでコタンに出演したのは、1998/10~1999/3の6回だけで、この後仕事の都合でライブ活動は休止していた。
特に後半は当時原子力情報資料室に勤めていたYAMAHAクラッセ仲間のF君とユニットを組んで反原発をメッセージにしていた。
また、1999/3にはロッヂゆうげん荘で行われていた軽井沢フォークライブに一度だけピアノの弾き語りで出演もしている。
【コタンから東京中のライブハウスへ】
それから2004年になって、軽井沢の由井さんの月1江古田マーキーライブに通うようになり、
その打ち上げで意気投合し、もう一度、軽井沢フォークライブに誘われて出演することになったのがライブ活動再開のきっかけになった。
ちょうどこの頃、YAMAHAミュージックセンター池袋でソングライティングコースに参加していたのと
表参道にある音楽専門学校AMVOXの作編曲音楽理論セミナーを受講しており、ライブはやっていなかったけど、音楽の勉強だけは続けていた。
※清水ひろみ(清水さん)とれーみ☆に出会ったのが、YAMAHAミュージックセンター池袋ソングライティングコースである。
また僕がライブハウスで一番衝撃を受けた秋山羊子(羊子ちゃん)と出会ったのもちょうどこの頃である。
※YAMAHA関係の人の池袋のイベントに僕が出演し、たまたまそれを見に来ていた羊子ちゃんが、演奏後の僕に声をかけてきたことから縁続きになった。
それから羊子ちゃんが当時ホームにしていた池ノ上ボブテイルへ通うようになった。
※先代の店長である羽場さんが他界するまでは、オススメの出演者がある時にはメールを頂き、聴き手として足しげく通っていた。
勿論全て当たり!の個性豊かなミュージシャンには多くの刺激を受けることが出来た。
話を戻すと、そんなこともあり、軽井沢フォークライブに再出演をしたのであるが、詳しくは書かないけど、殆どイベントの「てい」をなしていなかった。
そして、由井さんと税理士の遠山さんから「何とか前のように盛り上げたい。」という相談を受けて、5か年計画を練り、
プロデュースを引き受けたのが僕の本格的な音楽活動の再開となる。
兎に角、出演者とスタッフを集めないと話にならないので、YAMAHAの仲間に手伝ってもらったりしてスタッフを固め、
出演者をスカウトするために、2003年の山崎まさよしのシークレットライブから、当時一番出演が難しいと言われた四谷天窓に由井さんを出演させ、
僕はギターとピアノとコーラスのバッキングで参加するという戦略をとった。
これが大当たりし、第1回目では天窓のスタッフの方から「由井さん、全国ツアーでもやられているんですか?」と言われるくらいの盛況だった。
僕はバッキング大好きなので、これほど嬉しい言葉はなかった。
そのついでに僕もスカウトすることが目当てと言うか、若いミュージシャンと関わるのが楽しくなって2005/4/2(土)に初出演することになった。
その音源が今回のものである。(30:02)
天窓は女性の若いピアノ弾き語りができるハコとして四谷天窓comfortも併設して、
これも出演応募者が殺到するようになり天窓グループ音波は今に至るライブハウス経営の成功モデルとして続いている。
勿論、僕もcomfortの出演の常連になっていった。
当時、天窓はコタンから歩いて5分の場所にあり、コタンにも由井さんのバッキングとソロで再出演するようになり、
昼の部は天窓出演、夜の部はコタン出演という時もあったくらいに、ライブ出演が日常になっていた。
※同時にYAMAHAの仲間には、年1回の発表会として四谷天窓comfortやMiiya Cafeでもイベントを行って舞台慣れしていってもらった。
勿論、由井さんと僕のユニット出演により、信頼できる交渉が出来るようにした後のことである。
※この頃、タティこと楯川明宏がコタンの店員兼出演者となり、よく話すようになっていた。
また当時、江東区木場に住んでいたので、銀座に近いことから、Miiya Cafeにも出演するようになり、
Miiya Cafe主催・日暮里・舎人ライナー開通の野外フェスではMiiya Cafeスタッフのyumiちゃんと二人で全体の司会進行などもやらせてもらった。
それとともに軽井沢フォークライブもスタッフと出演者も、こちらが選べる段階まで盛り上がるようになり、
2006年にはゲストとして海援隊の千葉和臣さんに出演して頂くほどになった。
【運命の年】
これが結果的には2008年に想像もしなかったサプライズとつながる。
要するに2007年のメインゲストとして手あたり次第出演交渉のメールを送ったところ、鈴木康博さん(やっさん)のマネージャーさんから僕の携帯に電話がかかってきて
「千葉さんが出演されているのなら、いかがわしいイベントではないだろうから、話を聴かせてほしい。」との打診があったのだ。
この話を由井さんに持ち掛け、当時のやっさんの事務所へ交渉のため足しげく通ったのだ。
交渉の結果、「とりあえず、プロモーションという形で出演しましょう。」と言う事になり、赤字を出さない形で交渉がまとまった。
しかし軽井沢は土日の二日間行われるので、土曜のトリをどうするかが問題となり、
当時コタン仲間であったオオタスセリ(スセリさん)に出演を依頼したことでイベントは大成功する。
※この時のスセリさんからは、プロとしてのイベントプロデュースの心得えを叩き込まれたことが、後の音楽活動のこやしになっている。
やっさんからは帰りの支度が出来るまでロビーでいろいろお話しをさせて頂き、帰り際には「また呼んでもらえるかな。」と言われ、
次年度の出演も確約して頂くことになった。
2008年には詳しい経緯は書かないけど、やっさんが土曜日の大トリ、やっさんのマネージャーさんの人脈で細坪基佳さん(坪さん)が日曜日の大トリで出演して頂けることになった。
それだけではなく、常連のあべあきらさん、それに僕の師匠である寺門一憲さんと水岡のぶゆきさんのゴールデンペアにも日曜日に出演して頂き、
坪さんからはMCでイベントのレベルの高さを大絶賛して頂いた。
ある意味2008年は僕にとってターニングポイントだった。
軽井沢フォークライブはもともと地域活性化のイベントであり、当初は地元の若手が中心となって運営されてきたものである。
要するにこの時点でスタッフも地元から募れるようになり、僕の計画は完了していたのである。
【東京での音楽プロデュースのはじまり】
この頃、軽井沢の成功モデルを応用して、ライブハウス乱立状態で対バンライブの劣化が顕著になっていた東京で応用できないかと考えた。
つまり、普段トリやワンマンをやっているミュージシャンをブッキングして、イベントライブのプロデュースができないものか思案したのだ。
まずこの案について羊子ちゃんのマネージャである鈴木多加志(鈴木君)と新宿の喫茶店で交渉し賛同してもらい、次にタティとのりごんに話をしてブッキングすることになった。
何より心強かったのは清水さんが、ずっと軽井沢フォークライブのスタッフ兼出演者として陰ながら力を貸してくれたことが大きい。
実際、護国寺の清水家をたまり場にしだしたのもこの頃からである。
それと同時に僕自身はライブハウスでのスカウト活動のモチベーションもなくなり、ライブ出演はこの年に卒業していくことになる。
※四谷天窓の卒業記事
※あきゆみこ(ゆみこちゃん)と出会ったのもcomfortのこの頃で、ギターサポートをする約束をして練習のため、
池袋YAMAHAのスタジオを無料で使わせもらったりもしたのだった。
※特にメジャーデビュー経験のあるYAMAHAミュージックセンター池袋でソングライティングコースの斎藤麻里子先生には、
いつもイベントについての相談に乗ってもらっていた。
3年間に及ぶ
Tokyo Acoustic VOL.1 in Miiya Cafe
Tokyo Acoustic VOL.2 in 四谷天窓comfort
Tokyo Acoustic VOL.3 in 四谷コタン
を経て、清水さんから紹介されて出演していた御茶ノ水KAKADOにて僕のProfileに動画を掲載している「原っぱの傘兄弟」へとつながっていった。
【念願の自己実現】
一通り完成形を見届けた後、僕が一番大好きなレコーディングを本格的にやるため、
CDアルバム制作と全国発売を行うA.O.M.P.レーベル(Adult Oliented Music Project)を税務署に登録し事業を開始した。
と言っても、一生の記念に自分のCDアルバムを作るためのものである。
音源自体は溜めこんでいたので、後はサウンドエンジニアと流通業界とのつながりを探すことさせ出来れば予算上想定内に納まると試算でき
ここで鈴木君に相談したところスタジオ・レダの水谷勇紀さんを紹介してもらえ、ミックスダウンとマスタリングを承諾して頂けることになった。
また、実際にメインボーカル収録の際に水谷さんからレコ発ライブとして、
ボブテイルの羽場さんが「日本一のハコ。」と言っていたSTAR PINE'S CAFEに推薦して頂いたのだ。
そのオーディションではないけれど、2012/8/24(金)に南青山MANDARAに出演することになり、
一人では心細いのでMiiya Cafe仲間である青山シゲル(シゲルちゃん)にギターサポートを頼んで無事乗り切った。
同時に鈴木君からは信用できる流通業者としてブートロックも紹介してもらい、社長からは手とり足とり教えてもらいながら、
CD全国発売とiTunesの配信手続きを行っていった。
※一見、順風満帆のようであるが、この頃はかなりきつかった。
と言うのもゴールデンウイーク後、父が末期の肺がんだと解り、同時に仕事でも大手損保会社の中核システムWeb化の開発を一人で仕切っていたからだった。
そして父の意識があるうちに、父の写真でジャケットを作ったCDアルバムが間に合うことを納期として制作し、
2012/8/31(金)の帰省で父の病室へ持って行くことができたのだった。
そして、2012/9/8(土)父は他界した。
その後2012/10/28(日)、自身のレコ発ライブをやり遂げることが出来たのである。
この時にも、バンドメンバーやスタッフとして多くの仲間、そしてバンドの要となるベースとドラムを師匠経由で水岡さんにお弟子さんを紹介して頂き、
フルバンドの「てい」をなすことができ無事レコ発ライブをやり終えた。
【東京への恩返し】
僕がやりたかった音楽活動がほぼ終わってしまい、しばらくはライブとは距離を置くつもりでいた翌2013年。
2月だっただろうか。
ゆみこちゃんから7年ぶりの電話がかかってきて「CDを作ってほしい」と言う事になった。
とりわけ、ぶらり旅以外は差し迫った行事もないので引き受けて、
僕がやってきた手順通りを本人が憶えていく過程に伴走する形で編曲とプロデュースを行う事になった。
4曲とは言うものの、幼い子供を二人抱えて家族を切り盛りしている事情から、
家庭生活を犠牲にしないことを条件に出して、気長にやっていこうと言うことになり
1年がかりで、2014/3/16(日)あきゆみこレコ発ライブを本人の地元である埼玉県小手指で無事行うまでにこぎつけた。
しばらくして僕自身もマイペースでライブ活動を再開することに決めて、ぶらり旅の合間に、
オファーがくればライブをやってみようという気持になり2014/4/6(日)阿佐ヶ谷Next Sundayにてライブ活動再開をすることになった。
その後、ゆみこちゃんから、東京と実家のある横浜でもレコ発ライブをやりたいと言う事で、
2014/3/22(土)の昼の部に僕らが出逢った四谷天窓comfort、
そして2014/9/23(火)横浜CROSS STREETで、あきゆみこレコ発ライブは完結したのである。
この年の8月、僕が推薦した勤務先の同僚が自殺したことと、父の3回忌を挟んで、母が急性糖尿病のため3週間の検査入院をしたことから、
年内いっぱいで情報処理業界から足を洗い、実家へ戻る決意をした。
同時にその頃セラピストという本を読んでいて、初心に戻り、臨床心理士への道へ舵を切ることにしていたのだ。
意識では納得していたものの体は正直なもので、度重なる病魔は僕の体をむしばんでいき、
10月にはほとんど出社さえままならない状態になってしまった。
しかし担当していたシステムが僕なしでは完成しないことから、最後まで多くの人にお世話になり、
年内の引き継ぎまでたどり着けたのが引っ越しの前日だった。
今考えてもあの状態は仮面うつ病であり、あのまま東京生活を続けていたら生きていなかったかもしれないと思う。
東京最後の思い出として、これまでいつも僕に関わってくれた音楽仲間と東京最後のハコとなったNext Sundayへのお礼として
2014/12/28(日)に「”よりすぐりLive~最後の日曜日~” in 阿佐ヶ谷Next Sunday」を行う事にしたのは2015/10/12(日)の最後のソロライブの日である。
このイベントについても僕のProfileに動画を掲載しているので、ここで語ることもないだろう。
【縁は異なもの】
2015年は臨床心理士指定大学院受験のため全てを費やす覚悟で実家に戻ってきた。
しかし不思議なことが起きるものである。
2015/2/15(日)、25年ぶりに戻った故郷である明石の街をぶらついていたら、高校時代にたまり場にしていた喫茶店寺珈屋が目に入った。
店内に入ってみると、店長から「あんたもか。はいこれ。」と新聞の切り抜きを渡されて2015/2/26(木)に閉店することを知らされた。
僕は店内にあったギターを借りて時間を潰していたら、常連客(ボーカリスト)から、
2015/4/19(日)に神戸・三ノ宮の東極楽寺で行われるライブに誘われ出演することになった。
また、別の常連客から「閉店までにまた来てライブをやってほしい。CDもほしいから。」と言う事になり、
2015/2/17(火)が寺珈屋での僕のワンマンライブになったのである。
そして先週、中学時代から高校時代にかけて僕のライブやレコーディングのミキサーとベースをやってくれていた中野潤からfacebookで友達申請があり、
チャットで近況を報告しあっていると、まだ近所に住んでいることがわかった。
それと、たまたまfacebookでKTAKE(たけちゃん)と知り合いになり2015/3/14(土)1曲だけという条件でレコーディングを行った。
また、facebookを通じて、東京に居る時より近くに感じるコタン仲間との遣り取りなども含め、
本当に四半世紀も東京で暮らせることができて心から有難い気持ちが湧いている。
こうやって、僕の音楽人生は「想像もしない形で続いて行くものなのか」と思い、
これまで関わってくれた音楽仲間への感謝と総括を兼ねて書き綴ってみた。
これからは本来の目標を見失うことなく歩いて行ければと思いながら終わりの言葉とする。
ありがとうございました。