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個性化と社会化


自身でも長いこと音楽活動をやってきて、羊子ちゃんのようなミュージシャンを見続けてきたら、アーティストに個性化というのもが不可欠であることを実感できる。

心理学では個性化はよく社会化との対立概念で用いられる。
現在、発達過程において臨床心理学や精神医学の現場で問題視されるのは社会化の欠如であり個性化はスルーされる事が多い。
これは一人の人間という存在が家族を最小単位とし、広くは地球規模に至るまでコミュニティの中で初めて成り立つものになっているからである。つまり、社会に適応することこそが正常と解釈されてきた所以である。とりわけ日本においては、戦後高度成長期に規格大量生産を成功モデルとしてきた時代精神が人間においても当てはめられ、偏差値教育をあげるまでもなく、平均値から外れない事が異常とみなされない大前提になってきた。
しかし、近年の社会病理を考察する場合、この「社会化」並びに「適応」という概念自体の普遍性が疑わしくなってきているのではないだろうか。
昨年まで東京で四半世紀暮らして来て、これを痛切に感じたのは2011年の東日本大震災以降である。株価だけを見ると一見この5年でリーマンショックから経済が回復しているように見られるが、実体経済は格差が広がり正規非正規雇用の比率はこの25年で倍増している。それに伴う可処分所得の減少と社会保障費の圧迫などで、将来不安を抱かない方が常識はずれになってしまった。また、東京の通勤ラッシュの時間帯では、毎日どこかの駅で人身事故があり、電車遅延が日常茶飯事になっており、報道にも乗らない異常が日常になっている。この現象と自殺率との因果関係を裏付けるデータは未だ存在しないが、会社勤めの立場だった時を考えると、明らかにこの時間帯が一番「死んでしまいたい」と思う時だというのは合点がいく。実際に1年半前のプロジェクト現場で発生した同僚の自殺も早朝だったが、会社という組織においては、これに対処できる柔軟性など失っており、外部機関においても現実的な予防対策をとれるようなシステムがない。

社会というものは個人を生存させるために意義がある概念であり、それ自体に「余裕」、即ち、車のハンドルで言うところの「遊び」がなくては、容易に個人を殺す存在に転換してしまう。要するに個人よりも社会のほうが病んでいる訳で、適応すべきなのは個人ではなく社会のほうである時代に到達してしまったと思われる場面が多々ある。
ここにおいて臨床心理学や精神医学に求められることは、これまでの「社会化」並びに「適応」に対する解釈の転換ではないだろうか。
例えば、発達障害愛着障害といった診断分類はそれまで解明できない症例に対し細分化ができるようになり、少なくとも親の養育態度などが単一原因ではないレベルまで説明できるようになったことは画期的である。しかし、ここにもdisorder(障害)という表現がDSMに残されているし、日本の特別支援教育においては都道府県などが行う行政機関として適応指導教室という表現が残されている。つまり厳然として「社会に適応すべきなのは個人である」が常識のまま残り続けている訳である。

右脳と左脳の相補性に対する解明はとてつもない速さで進んでいる。例えば、交通事故などで言語機能が損傷された部位(左脳)に対する補償部位(右脳)機能の存在が検証できるようになってきた。しかし、脳科学で解明されているものの上位概念として心の理論などがあげられるが、これら社会生活に必要と言われている発達水準の概念に対して明確に説明できている訳ではない。もし、これらの概念を説明できる科学技術があるとすればMRIなどの脳の診断画像だけでは不十分で、シュミレーション技術との相関関係を分析していかなければ知見の積み重ねにはならないだろう。ここに心理学研究法を投入する意義が残されている。

今後の日本を支える産業を考えてみると、情報処理産業の具体的派生及び応用産業として、農業や文化コンテンツ産業などがあげられるが、それぞれの場において求められる人間の能力は想像力や創造力であり、その源泉は個性である。ここに「みんなと一緒」の能力はむしろ邪魔となってくる場合さえある。勿論、秩序の維持を形成することは重要であるが、既存の概念や社会システムの転換期においては、これまでの常識を覆す理論の構築や実践活動が不可欠なはずである。
知性と科学を基盤にする現在において論理の飛躍は許されないが、常識を疑う事から始めなければ現状打開の原点にはならないことは明らかであり、その芽を摘むことのない社会教育や心理教育が求められている時代になっていると痛切に感じる年の瀬である。
by jun_hara | 2015-12-29 18:37 | 独り言 | Comments(0)


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