節分前に思うこと

節分前に思うこと_e0027033_085482.jpg今年最初の四谷コタンでのライブは気持ちよかった。
よし!Tokyo Acoustic VOL.3はコタンに決定なのだ!
セットリスト
1.Opening with a A.Guitar
2.生まれた街で with a A.Guitar
3.甘い時間 with a A.Guitar
4.淋しさを誤魔化しきれず with a A.Guitar
5.乾いた九月 with a A.Piano
6.ここへは来ない with a A.Piano
7.ONGAKU with a A.Piano


今回の写真は日曜日の永代橋から観えた月島の夕景です。

さて、余り面白い話では無いけど、最近とみに思う心を知るということについて書いておきます。

この時代東京で暮らしていると生活世界という言葉を忘れてしまうことが多い。
この街ではもし現在の仕事が嫌になったら、転職や引っ越しで関わりたくない人から簡単に逃れることが出来る。
でも地方では未だ村社会というか匿名性を享受できないと言うか、自らの人生にとって最も大切なのが生活世界である。

またこの時代、解雇や職場の倒産、家庭崩壊など逆境という現実に迫られた時には
自らの力だけではどうしようもない境遇にさらされることがあって当たり前である。

地方の生活世界では、職場や近隣の人達と日常で関わることで営まれる時間の比重が大半をしめる。
これは一歩間違うとその人間関係をこじらせてしまい、選択枝がない分だけこれまでの生活水準を取り返すのに想像を絶する時間を要する。
それに耐えきれなくなると自殺・心中・犯罪など、それまでに思いもよらなかった行動で自滅することも不思議ではない。
だからこそ地方での暮らしは保守的にならざるを得ず、
『三猿(見ざる聞かざる言わざる)』や『君子危うきに近寄らず』を肝に銘じなければ生きていけない。

特にNext Chanceの殆ど無い疲弊している地方では厳然たる壁となり、若い者たちはそのしがらみから逃れるために都会へと出て来て、誰もここからでられなくなるのだ。

今やインターネットやマスコミなどの情報にどっぷりつかっていると、まるで地球全体が世界であるかのように思うけど、この国ではそれは一面の真理で、世界情勢や経済事情は兎も角、殆どのマスメディアの情報は生きていく上での生活世界にとって重要ではない。

『少なくとも1年以内、人は(※僕の解釈では大人の世界では)安易に思ったことの半分を言葉や態度に表せてはいけない』と思っている。

以前にも書いたと思うけど、人間は事の善悪や好き嫌いで行動意図を決めるのではなく
『その行動をとったらどういう結果を招くか』という解釈でそれを決める。
その判断材料として、特に地方では「自らの生活世界に属する重要な他者はどう思うのか」という『社会的規範』とのバランスで決断を下すのが大人ということになる。
※僕は地元でそれが一番耐えきれないことだったけど。

しかし現在この国の大半の人は知育偏重主義の教育で20歳くらいまでを過ごし
『思いやり』や『以心伝心』、それに『目は口ほどにものを言う』という言葉をおきざりにして、
因果関係(または相関関係)だけで物事を即断しがちになり、
心さえも自然科学(とりわけ物理学)のように因果関係万能主義で解釈できると錯覚してしまいがちになる。

少なくとも心とは今流行っている脳科学とイコールではないのだ。

先日テレビで瀬戸内寂聴さんが「私は因果応報と言う言葉が嫌いなんです」と仰ったのも合点がいく。
この国では人生に深く関わる本当の宗教的思想や臨床心理学では相手の心を知るために自然科学的なアプローチはしない。
むしろ他者が懺悔やカウンセリングで語ることをあるがままにインプットして、心の木ではなく森を見ようとする。
つまりクライアントの言葉の整合性など枝葉末節に注視するのではなく
「今この人に語らせている言葉の背後には何(WhyではなくWhat)があるのだろうか」と言う態度でのぞみ、ぼんやりと矛盾があってこその心の全体像を受け止めようとする。

言わば心の全体像(世間では性格とか人間性とか言われているもの)というものは俯瞰するものであって、数式や証明のように論理だけでシーケンスに解釈を出来ないものなのだ。

ただカウンセリングではクライアントが発する言葉の細部を無視するというのではなく、
臨床心理士は時間をかけてその人が語った言葉をあるがままに記録していく。
その一連の記録から時を経て河の流れのように離合集散する矛盾を抱えた心の全体像を垣間見るのだ。
これを難しく言えば、19世紀末の哲学者エトムント・フッサール(1859~1938)が提唱した現象学的接近法ということになる。

要するに心は物理学のように再現性や法則を求める対象...つまり固定された真理ではなく、
一人の人間が時間をかけて語り続けた言葉の記録をたどり、
その人の紆余曲折を経た心のありようが、まるで一編の小説のように見えてくるようにアプローチするのが対人解釈の基本になるのだ。

だから最低でも他者理解においては少なくとも1年(四季が及ぼす心境の変化を考えた場合)はかかると思うし
それまでは安易に「この人はこういう人だ」と断定せず、そう思った自分の結論に対して懐疑的になり「もしかしたら自分が認知的不協和から脱するための正当化をしていないか」と言うことを
肝に銘じて対人認知に臨まなければならない。

特に今は先の見えない大恐慌に突入しつつある余裕のない時代であるからこそ、T.P.O.及び節度に応じた言葉と、その内容を聞く人の許容量を慎重に鑑みつつ、
しかしながら自己分析においても人は常に時間をかけて他者への解釈が変容していくと言うことを忘れてはいけない。


しかし現代ではそれを頭で分かっていても日常の忙しさに追われて、
即断即決を仕事で求められる時代だから、エポケー(判断の保留)などはなかなか思うようにはいかない。

たとえそれが東京であっても縦社会であるチームで仕事をする限り、職場も一種の村社会であるのだから、うまく過ごして行くには『正論を述べて、結果を知らず』では先は観えている。
これらのことを考慮して初めて自覚とか反省とか、それに個人の自由意志を超越した運命の力(天運)を謙虚に受け止め、一日一日を大切に生きることができるのだろう。

※この場で用いた心理学は臨床心理でもC.G.ユングの分析心理学を前提としており、フロイトの精神分析学ではない。

先日ライブのMCで
「こんな時代にこうやって今舞台で歌えたり、好きなライブハウスに通ったりできるのは、凄い幸せなことではないのだろうかと思います。
次の歌は中学3年生の3学期に初めて作詞作曲した歌ですが、こんな時代だからこそ久しぶりに歌います」と言って
30年ぶりに歌ったのが淋しさを誤魔化しきれずだった。

その歌詞だけを記しておきます。

淋しさを誤魔化しきれず
                Words & Music by Jun Hara at march 1, 1979
こんな寒い夜にも
街の片隅で
ただ死を待ち望む人がいる

冷たい風が吹き抜け
街行く人達は
寒そうにコートの襟立て通り行く

冬は心にまで浸みてくる
淋しさを誤魔化しきれず頬伝う涙が一つ

この街の裏通り
彼が暮らした部屋
今は誰かが灯を点し住んでいる

行く当てなくこの街を彷徨う
飢えた野良犬のように
昔のプライドも捨ててかがみ込む

すがる人がいない彼だから
温かい一言さえも聞けずに死んでゆく

冬がこの街を白く染め
今年の終わりを告げている
彼の命とともに

by jun_hara | 2009-02-03 00:14 | 出来事


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