あなたの今 捜してるもの
その心のなかにきっとあるわ だから多分 その哀しみは まわりのせいじゃない 誰かと自分のこと 比べるなんてもう止めて そうすれば生きてゆくことは そんなに難しくない きっと難しくない 心やさしくなりたいなら 傷ついて恨んだりしないで 愛にめぐり会いたいのなら すべてを失くすこと 恐れずに 後ろばかり みなくても 新しい愛はまた来るわ 自分を信じていたければ 明日を見つめることね 明日を見つめることね 心やさしくなりたいなら 傷ついて恨んだりしないで 愛にめぐり会いたいのなら すべてを失くすこと 恐れずに 心の扉を閉じないで あなたには見えないところで 誰でも涙流してる でもみんないつかまたひとりで そこから歩いてゆくの 心やさしくなりたいなら 傷ついて恨んだりしないで 愛にめぐり会いたいのなら すべてを失くすこと 恐れずに 誰かの為に すべてを失くすこと 恐れずに 詞:小田和正 #
by jun_hara
| 2016-08-03 00:53
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しんどかった。 ここのところ、空き時間は課題発表の森田療法の研究に没頭していた。 原案プロットに書き出しが終わったのは、2016/7/7の18時。 次のパワポの作成は一番熟慮の時間を要する。 つまり、システム開発における外部設計と内部設計にあたり、話す内容との連動が必要なのだ。 まず、スライドをレジュメとして印刷するのは最初からネタバレの漫談をやるみたいなものなので、選択肢から除外される。 しかし、持ち時間が15分や20分の場合、伝えられる情報量は限られているので スライドにはふんだんに画像を盛り込むため、参考文献から何度もスキャンの連続が必要になる。 記憶心理学上、文字情報が一定の水準を越えた場合、聴き手はキャパオーバーになるのは当然である。 つまり、言語表現は、言葉と画像を駆使して意味記憶になるように配慮しなければ、情報伝達として無駄な時間になるのだ。 また、最初にノートを書く必要がないよう、授業終了後、発表内容のスライドpdfのダウンロードができることを伝えておく。 これによって、聞き手は安心してスライドと身振りだけに集中して聴講できるようになり、 話し手は聴衆の反応を確認しながら話せるわけである。 一番時間を要したのは恩師の似顔絵だった。 Facebookから写真を印刷し、輪郭をかたどって、デフォルメし、スキャンした後、ソフトで補正。 その後、印刷し、縁取りを濃くして、もう一度スキャンして完了。 過去に何度もやった作業だが、「こんな時間に何をやっているのか」と言う気持ちはぬぐえない。 以上の作業は、東京で何度もプレゼンをやった経験から来るもので、想像される結果は明らかだ。 要するに、聴衆がレジュメに目を落としてしまったら、発表者の負けというのが事実結果になるにすぎない。 レジュメ原本が完成して、ゼミ部屋に行き、印刷を終えたのが午前1時を回っていた。 帰ってきてから、パワポを使って15分で収まるようリハを繰り返したら午前3時を回っていた。 話す言葉が自分の言葉として咀嚼できていなければ伝わらないし、 伝わると思っている表現が伝わらなかった場合、表現の切り替えができない。 よって、リハは、時間通りにおさめる事が当然で、それ以上に、想像と実行の一致度(パワポとレジュメと話す内容)を高めていく作業であるため、一度で終わらないのである。 まあ、慣れてくれば、この作業は短縮されていくのは当たり前なのだが。 その後、風呂に入って就寝できたのは午前4時をとっくに過ぎている。 さいわい、次の日は1限目がないので9:30まで眠れるので、もうろうとはしなかった。 しかし、僕の最大の弱点である睡眠不足は、発表に影響を与えた。 いつもの「客を飲む30秒でのつかみ」ができないのである。 それでも事実を受け止めて、伝えたい事に集中を切り替える。 課題発表は、お笑いが目的ではなく手段なので、すぐに割り切れるからである。 それでも、発表内容に聴衆が興味を持って聴き入っているのに気づくと色気が出てくる。 生来のアドリブ話しがどうしてもやりたくなって、やってしまった。 しかし、当然、不発である。 一番嫌いな一部にウケる結果になってしまったが、まあ、後で笑い話にしておいた。 おそらく、今回の課題発表については担当教諭の評価が高いと思う。 特に日本の心理療法3つの発表については、ありがたいコメントをいただいた。 これは想定していた。 発表順が、ストマス(動作療法)、僕(森田療法)、ストマス(内観療法)であったから、「どうつなぐか」を考えての内容にしたからだ。 それだけではない。 発表当日まで、決して、前後の二人に接触しないよう意識していた。 学部生時代に、学んだことだが グループ発表ならともかく、個人発表であるのなら、自力で発表全体を前もって考えることが身体に仕込まれているからである。 安易に打合せをしたならば、個性が打ち消されて妥協が生じ、切磋琢磨が生まれない。 ここは仲良し集団ではないので、発表後にねぎらいの言葉さえあればいい。 これは対バンのライブや落語会とまったく共通している。 結果として、ストマスは全力で準備をしてきたのは明白で、気持ちの良い発表結果だった。 この緊張感は今後の修論の発表の肥やしになるはずである。 僕個人の発表は、もちろん内容と構成に自信があったし、今できるすべてを出し切ったから後悔はない。 ただ、最大の弱点である睡眠管理に失敗したことを除いては。 終わった後で、初めて担当教諭から個人的にインフォーマルな会話をしていただいた。 素直にうれしかった。 すべてを見抜かれていることに気付いたからだった。 いや、聴いていたすべての人は、誰もが感じたことだろうと思う。 帰ってきてから発表内容を振り返り、大好きなドラマちりとてちんの台詞が浮かんできた。 これは今日発表した森田療法の人間観と重なるからだろう。 草若師匠の名言 「どうしようもない思いを抱きながら、 いやな自分、みにくい自分、まっすぐ見つめたり。 そらしんどい。そら苦しい。 けどな、その先に見えてくる何か、あるはずや。 そうやって、人の気持ちがだんだん分かるようになる。 優しい気持ちが持てるようになる。 自分とよう向き合ったら、次は相手と向き合わんとな。」 #
by jun_hara
| 2016-07-09 01:02
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京都大学出身のある教授が、退官を迎えた河合隼雄に「臨床家にとって、大切なことはなんですか。」と聴いた答えが「最後は、信じることやね。」だったそうである。 僕は高校時代の化学の先生のことを思い出した。普段、人間観については触れずに論じている授業を横に置いて、前日観た「砂の器」の映画解説を始めたのだった。この映画は、ハンセン氏病を物語の背景としたことで、人間の宿命や精神に関わる研究を続けている身としては永遠の課題のように思われる。普段、自然科学について冷静に論じている先生が、この時ばかりは涙しながら話していたことを昨日のことのように記憶しているのである。 この時の先生の様子について、後で茶化す男子がいて、そいつが普段僕といるやつだったため、仲の良かった女友達から「あんな、人の心もわからない〇〇君と一緒にいるなんて。」と言われたことがあった。それに対して言い返す言葉もなかったが、心の底では「その正義感による意見も、人の心をわかっていない言葉ではないだろうか」とぼんやり思っていた。今なら「それも一つの自我防衛」なんて一言で終わってしまうが、多くの人にとって、この「正論」や「正義」とやらが人間関係をこじらせる要因として重いのだろうと思う。 科学というものは、批判的精神を失うと存在理由が危うくなる。ここでいう科学とは、自然科学のことである。科学には自然科学だけではなく、人文科学、それに遅れてきた社会科学が存在する。 自然科学と人文科学の大きな違いは、前者が神の作った神羅万象についての原理・原則について探究を行うのに対し、後者は人間が作り出した創造物についての研究を行う。よって、自然科学の扱う対象に「信じる」という価値観は必要ない。神が作ったものであるならば、「信じる」以前に「受け入れる」しかないからである。かたや、人文科学は人間の価値観を主題とする。要するに小説や文学の内容が事実かどうかは二の次である。 この定義に基づけば「社会科学とは何か」については難しい。社会が作り出したもの自体の定義があいまいだからである。心理学はこの社会科学に重心を置いているのであるが、遅れてきた学問でもあることから、自然科学的手法(主に統計学)で探究を行う「行動主義的心理学」と、人文科学的手法(主に事例研究)を中心にする「心理臨床」というものが存在する。もちろん、「心理臨床」という概念は日本独自のものであることは織り込み済みで論じている。この「心理臨床」という実践に存在理由を置く臨床心理学に、河合の言う「信じること」の大切さが含まれている。つまり生身の人間を相手にする心理学からは「人間観や意味づけ」は排除できないのである。ただ、教育や哲学、それに宗教と違うところとしては、「道徳や正義」といった価値観が極力排除されていることではないだろうか。もちろん、人間観のない心理学などと言うものはない。少なくとも「個人の幸福」といった程度のしばりは、目標というか、存在理由のひとつとしてある。 このような論理展開になると、批判的精神という、権威に対して「疑うこと」から始まった自然科学に基づく心理学と、クライアントの魂とでも言うべきものを「信じること」によって成り立ってきた心理臨床は、相いれない概念ではないかという壁に突き当たる。しかし、これは二律背反するものではなく、多層構造をなしてクライアントに関わる大切な観点を示唆している。要するに「間主観的な認知による関係性の構築」と表現すればいいだろうか。 クライアントとの関係性で成り立つ心理学の実践現場では、「行動主義的心理学」による仮説生成能力と、「心理臨床」による信頼感の形成能力が不可欠であり、どちらも座学では体得できない経験値が必要であると思われる。 間口は「疑うこと」から始まるにしても、その延長線上に「最後は、信じること」があるといった価値観が必要なのではないのだろうか、と思うのである。 #
by jun_hara
| 2016-06-30 21:43
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カウンセリングの父、カール・ロジャースが提唱したカウンセラーの3条件は有名である。
整理すれば ◆共感的理解 クライアントの話をあたかも自分のことのように受け止め、理解を示す。カウンセラーの枠組みではなくクライアントの枠組みで感情や考えを理解していくということ。あくまでも「あたかも」という性質を失わないことが重要である。 ◆無条件の受容 クライアントのありのままをすべて受け入れると言うこと。すべて受け入れ肯定することでそこに何かが生まれると信じている。 ◆自己一致(純粋性) カウンセラーが自分を偽らず、自分自身に対して誠実なことであり、あるがままの自分を受容していることをいう。たとえば、自分がクライエントを嫌ったり恐れたりしているとき、それをごまかさないで、素直にそのことを認めて自らを許していることである。 となり、「言うは易く行うは難し」なのは周知である。 しかし、話はここで終わらない。 ロジャースはこの3条件を発表した翌年、新たに一つの条件を加えた。 要するに、カウンセラーがこれらの態度を身に着けていても、クライアントに伝わらなければ意味がないということである。 これはロジャース自身が真摯にこの3条件と向かい合っていたことを意味するだろう。 心理学者に限らず、実践の伴わない理論家にはこの柔軟性が希薄な場合が多い。 とりわけアカデミックに固執するあまり、難解な用語や理論で煙に巻こうとし、最後は自分の言い訳けで締めくくらないと終われない人たちも少なくない。これは今に始まったことではなく、古代ギリシャ時代から「論理のための論理」すなわち詭弁として忌み嫌われていたことである。 真理の追求に難解さが伴うことは事実であり、誰もがこれに憧れる。 しかし自分の言葉にできるかどうかにかまわず、難解な用語で語ることは慎むべきだろう。 本来理解できるはずの説明や伝達を放棄したならば、それは自己陶酔にすぎないからである。 本当にスマートな人は、語る人により説明の仕方をわきまえているのである。 しかし、他者の説明に同一化してしまっていないかに気づかないならば、無意味なモノマネになり滑稽であるだろう。 カウンセリングや心理療法はクライアントにだけでなく、あらゆる人にアカウンタビリティを負っている「実践」である。 そういった意味でロジャースの言う「傾聴」と言うのは「言うは易く行うは難し」なのであって、論理的に難しいわけではなく「真摯な気持ちがあるか」という点で「実践」が難しいのである。 要するに臨床心理学は「実践の学」であるところに存在理由があるため、現場で説明できる能力がない者は関わるべきではない。 はっきり言えば社会性のない者が正常とか異常とか言える立場ではないのは明らかであり、ましてや軽々しく「個性化」を口走ってはいけないのである。 昨今、効果研究ブームであるが、この点を忘れては間主観どころか、自分さえも客観的に判断しているとは言えないだろう。 臨床心理学の実践家を目指す場合、まずは構成概念を自らに当てはめるところから始まると思われる。 #
by jun_hara
| 2016-05-18 21:28
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今日は宿題になっている5分間即興カウンセリングのロール・プレイ逐語録を文字起こししたのだけど、これがまた難しい。
遂語録とは、会話を録音し、録音内容の「再生」「停止」を繰り返しながら、一字一句、発言の内容を変えずに、文章に書き取ることなんだけど...国会などの議会や法廷での論述に限れば、この定義はまったく疑いの余地はないよなあ。要するにどの議事録も速記者が居て文字起こしをするのだけれど、実際にはテープ録音からオペレーターが文字起こしをしており、速記録はその保証のために保管されるわけで、明文化されるこれ以上の意義はないだろうし。 ※最近の国会の議事録は疑わしいところがあるけどね。 でも、心理カウンセリングとなると話は違うよなあ。 録音した会話のニュアンスが、文字表現だけでは限界を感じてしまう。 ※それとも欧米の文化圏ではこれだけで充分な説明率があるのだろうか。 少なくとも、文字起こしだけでは、言葉とメロディーにこだわって作編曲してきた立場からすると、リズムや抑揚、それにセッションする相手との波長の同期がまったく表現できない。専門用語にするとノンバーバール・コミュニケーションの要素を充分に盛り込むのが難しいのだ。こんなこと言ったら、医者から聴覚過敏の疑いがあるように診断されるかもしれないけど、もしそうなら、プロの音楽家なんて99%がそうなってしまうじゃん。 ある意味、作詞家など言葉だけを生業にしている人へ尊敬の念が増したのだけれど... 心理学が科学を標榜するのなら、その応用である臨床現場では、テキストマイニングによる音声データベース開発が急がれるようにも思ったのだ。 手作業による逐語録は臨床家の訓練として絶対必要に変わりはないはず。でも、今の時代、従来の厳格な質的研究として事例研究法をやる場合、このままでは一事例だけで一生ものではないかと痛感する。ナラティブなど質的ブームらしいけど、もっと現場の意見集約法として音声データ解析など量的研究の向上が急がれるんじゃあないかなあ。 そうじゃないと、いつまでたっても日本の臨床心理学は医学のおまけのままじゃないかと思われてしまうじゃん。 #
by jun_hara
| 2016-05-11 22:41
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